ノベル

ブログ小説;ノベル 「俺が片づけた」(6)

 男は、桶の山からもって行く客があると、必ずその人の目を見るようにしているのである。そんなことをしながらでも、片づけるのにそんなに時間はかからない。

これからどうするのだろう、と私は思った。もう終ってしまったのだ、この「仕事」も。

 男を目で追うと、一つの桶を取って尻にしき、体を洗い始めた。私は男から視線を外さないようにしてタオルに石鹸をこすりつけた。

 男は再び湯に入った。やはり目を閉じて、こんどは何をしようか、考えてでもいるようだった。

 さて、男は湯舟から上がると、隅にあった掃除用のタワシを持ってきた。こんどは、常備されているプラスチック製のイスを洗い始めたのである。また同じように隅に積んでいく。私もまたそれを真似ていった。

 その作業をしながらふと気づいた。そうか、まずはスリッパ。次は桶、さらにイス。どれも客が使うものだ。

そうして使う客は、どうしたってこの男にも気を使わざるを得ない。結果として、会釈したり、声をかけたりするようになるのだ。

 ふーん、そうだったのか。私は次にするこの男の行為を当てて見ようと思った。

最後は風呂から上がった時だ。何が使われるか。(続く)

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ブログ小説;ノベル 「俺が片づけた」(5)

 私はその男の後から風呂桶を片づけてみた。男は、前だけ見てどんどん風呂桶を重ねていく。

男が右へ行けば私は左へ進み、山にしていく。

男は私に気づいた。じろりと振り向いた。その目は洞窟のように暗く、奥から敵意のような光を発していた。

 さて、新たに外から入ってきた客は、空いている風呂桶を探す。だが、目の前で片づけられたばかりの風呂桶は使いづらい。

それで桶の山から新たに下ろすときには「働いている」われわれの方をちらっと見るようになり、目が合う。

すると、どうしても軽く頭を下げるようになる。私もいいですよ、と軽く会釈を返す。

これは当然の成り行きである。

男はどうしているかと見れば、やはり、目でウン、というように肯いている。

 私はその男の様子から、気づいたことがあった。(続く)

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ブログ小説;ノベル 「俺が片づけた」(4)

 ようやく、足から静かに湯舟に入ってきた。飛び出した頬骨を支えている顎をとっぷりと湯に浸けると、そのままじっと目をつぶっている。私は、この男が次にはどんなことをするのか、興味をもった。

男は、やおら湯から上がると、ぐるりと洗い場を見回した。それからゆっくり歩き出すと、そこに置いてある風呂桶を重ねた。

次にまた放置してある桶を拾い上げると、その上に積み重ね、そうして何個か積み重ねたところで、それを隅の方に持っていった。

何度かその行為を繰り返すうちに、広く雑然としていた洗い場が、どことなく整っていくのだった。

 男のしていることは、特に変わったものではないのだが、しかし、スリッパを揃え、こんどは風呂桶を揃えるという姿を連続して見てきた私は、この男にとって、その行為に何か特別な意味があるのかもしれないと思い始めていた。

 ひたすら片づけるだけ、という苦役だ。

自分もこの男と同じことをしてみたら、そのわけがわかるかもしれない。(続く)

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ブログ小説;ノベル 「俺が片づけた」(3)

 きっちり整えると、薄汚れたスリッパも新品のようだ。しかし、周囲の誰も関心を示していないように、見える。

 男の様子からすると、まだ湯に入る前らしく、灰色の肌は干からびたようで濡れてもいなし、鳥肌さえ立っているようでもあった。

 男を見てから私は、自分の体のことを思った。安定した会社で定年間近まで大きな苦労もせずにここまで来た。

すっかり贅肉がつき、胴回りは1メートルに近いのだ。

鏡に向かうと、しもぶくれの頬、禿げ上がった額。

最近では、それを見たくないので髭を剃る時には、カミソリの刃先しか見ないようにしていた。

 私が湯舟に入ると、その男も後からやって来た。

入る前にていねいに体を洗い始めた。洗いながらやはり眉間に皺を寄せている。(続く)

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連載小説;ミスファンノベル

春之助の冒険(8)

 春之助は軽トラックを砂浜に止め、トラックから降りることもせず、窓から水平線を見やっていた。

 風はなかったが、芯まで冷える冬の海。春之助はポケットから小瓶のウイスキーを取り出し、一気にボトル半分ほど飲んだ。

 頭の芯にアルコールが沁み込んでいくのがわかった。それから指の先まで軽い痺れが来るのがいつもの彼の酔いの回り方だった。

 痺れた指が、ハンドルから離れ、ドアを開ける。足の先まで快く酔いが届いている。

 ついに彼は軽々と荷台に飛び乗った。縛り付けていたロープを外すのにもう何のためらいもなかった。

 春之助はこの酔いに乗っていこうと思った。引き返してもこれから先どこへも行くところはない。

 筏は月明かりの砂浜に深い跡を残して残して海辺に引かれていった。

 春之助は暗い海を一瞬見た。静かな唸り声を上げているようだった。「さあ来い」と言っているのである。彼は、ぐんと筏を押した。

 それから何度も何度も子どもの頃から思い描いていた通りの乗り方で、丸太の上に飛び乗った。

 少し沈んだが、すぐに筏は波の上で安定した。春之助は帆を張った。もう風は冷たくはなかったし、夜なのに明るかった。筏は海に弄ばれながらも舳先を沖に向けた。春之助は筏の上に立ち上がって、手を腰に置き、はるか沖を見据えた。目の前の巨大なものは、子どものころ泳いだ故郷の果てしのない海原と同じだった。

 浜からは、角の生えた化け物が沖へ向かって真っ直ぐに進んでいくように見えた。

                    -完ー

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連載小説;ミスファンノベル

春之助の冒険(7)

 人々が寝静まった夜中の2時を行動開始時刻とした。

 春之助は筏を軽トラックに積んだ。一人で静かに乗せるには重過ぎた。結局一時間もかかってしまった。いったんは荷台の後方に筏を立てかけ、つぎに音のしないように少しずつ荷台に引き上げるのだ。首から背中にかけて紐を回し全身で引き上げた。

 春之助の弱ってきている筋肉は音を立ててきしんだ。しかし海に出られる興奮でようやくその痛みに耐えた。

 途中、怪しまれるのを危惧して、帆は外して置いた。 

 軽トラックは海に向かって走り出す。 

 海岸通に出た。春之助は海に目を凝らした。月明の下、海は黒々と広がっているばかりだ。不意に彼は恐怖感に襲われた。黒い海はとてつもなく大きな魔物のように、眼前に横たわっていたのである。

 春之助はこの黒く巨大な名状しがたいあるものに、手作りの筏で乗り出すのである。

 そいつは深く眠っている。目を覚ませば恐るべき破壊力で彼のような人間ひとり飲み込んでしまうことは造作もないことであった。それなのに、そいつが、深い底からさあ早く来い、と呼んでいるような気がしてしかたがない。はるか以前からこいつが呼んでいたのだ、彼はそれに今気がついた。

 春之助はここまで来て始めてその行動の無謀さにたじろいだ。・・・・50年も温めてきた筏で海へ乗り出す冒険物語・・・。

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連載小説;ミスファンノベル

春之助の冒険(6)

 最も工夫したところは帆柱であった。立て方が難しかったのである。筏の中心部に太目の丸太を立てた。支えの麻ロープを四方から引っぱった。それに横木を1本だけ組み合わせ、さらに木綿の帆を張り渡しだけのものである。

 風が強過ぎた時に、細紐でくくりつけるだけの細工しか施されていない、簡単なものである。

 こうして、縦4メートル30センチ横2メートルの筏が出来上がったのが12月25日。潮風が寒かったせいもあるが、春之助は出来上がった喜びで鳥肌が立った。ついに子ども時代の夢がかなうときが来たのである。

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連載小説;ミスファンノベル

春之助の冒険(5)

 作業はどうしても密かに行われることになる。廃屋(多分漁業関係者の使っていた漁具などの物置である)をただ同然で借りた。そこへ毎朝出勤するように出かけていく。木の扉を閉めると、中にこもって作業にかかる。サラリーマンの現役のときは、同僚の中でも腕っ節の強い方だったが、さすがに最近では休みながらでなければ、息が上がってしまう。

 まずは丸太であるが、これがなかなか手ごろなものが手に入らなかった。ようやく探し求めた丸太に、防腐剤を塗布、縛る縄は、麻ロープにした。絶対に化学物質は使わないと決めていたのである。強度に信頼が置けないような気がしたからである。

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春之助の冒険(4)

 筏で海へ乗り出すというわくわくするような喜びがふつふつと湧いてくる。さっそうと筏に乗って、沖を目指している自分のたくましい後姿が目に浮かぶようになった。

 人生最後のステージへ来た者への恐るべき誘惑である。

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春之助の冒険(3)

 春之助は、自分でもこの筏作りの夢が心を占めるようになるまでの数年間、ばかげたこととして何度も退けてきたのである。いい年をして、子ども時代の冒険物語を実現する?世間の常識からすれば物笑いの種である。それは良くわかっている。それなのに、どうしても筏作りをしなければならないと思い始めて、自分で自分が制御できなくなってきたのであった。これは少し頭がおかしくなってきた、(惚け)の兆候であろうと思い込もうとした。

 しかし、こころはどうしてもそれを認めない。

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連載小説;ミスファンノベル

春之助の冒険(2)

 春之助は今年70歳を迎える。筏作りは長い間温めていた計画だった.思い出してみると、なんと子どもの頃、そうだ10歳の頃読んだ冒険物語の筏が忘れられなかったのである。

 いつかは自分で作った筏に乗って大海原に漕ぎ出してみたい、その思いは大人になってさまざまな人生体験をしたのに、しぶとく生き残ってのであった。齢70歳ともなれば、元会社員には仕事もなく、子どもも自立している。妻はわけあって別居している。もうなにも求めるものもなくなってきたときになって、昔の夢が頭をもたげてきたのであった。

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連載小説;ミスファンノベル

春之助の冒険(1)

 たしかに少しは酔っていたが、それも意識はしっかりしていたし、筏を漕ぎ出す時の海風の心地よさは、春之助をすっかり有頂天にした。

 筏はやや左右に傾きがちだったが、冬の海をゆっくり沖へ進んだ。

 月光に海面が光リ、筏を組んだ木々がこすれてギギイと鳴る音以外は静寂そのものだった。

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俺が片づけた(13)

 寒くなり、湯冷めしそうになったので、私は再び湯に入った。そうして、男を見ていた。男はひととおりイスを片づけると、やはり湯舟の少し離れたところに浸かった。そうしてじっと目をつぶっている。

 風呂から上がったので、私もそれとなく男の後から脱衣場に出た。男はていねいに体を拭き上げると、パンツとランニングシャツを着けた。それから、すぐさま手近にある衣類籠を片づけ始めた。思ったとおりだった。出しっぱなしにしてある籠を元の棚にもどしていく。新たに入ってきた客は、軽く頭を下げたりしながら男に遠慮するそぶりを見せて、その籠を引っぱり出す。それからおずおずと衣類を脱ぐのであった。

 男の頬骨の下の口元が少しほころんでいる。その瞬間の男の表情を私は見てしまった。

 私は外へ出た。駐車場においてある車に入り、エンジンをかけた。駐車場から車を出すとき、バックミラーに男の痩せた影が映っていた。

 あの男は、ここまで来て、あんなものを探していたのか。

 ふたりが風呂に入っているうちに、空は秋の大夕焼け。雲が真っ赤に染まって広がっていた。

 小さなくしゃみ、それから鼻水。湯冷めのせいか、それとも夕焼けが悲しい色だったからか。私は夕焼けを背にしながらアクセルを一気に踏んで、高速道路に入っていった。        -完ー

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連載小説;ミスファンノベル

俺が片づけた(12)

「あんた、何してるの。なにもオレのやっていること、邪魔しなくてもいいじゃないか。手伝ってくれなんて言ってないよ」

 意外に、女のような細くてよく通る声である。頬骨がさらに尖っているように見えた。

「いやぁ、邪魔でしたか。それはどうも。でもおかげで皆さん、助かっていると思いますよ」

 うろたえた声で答えると

「あたりまえだよ。いいか、それがあたりまえなんだ」

 こちらに向かって首を長くさせて、あたりまえを繰り返した。私はあいまいな作り笑いをしてそれに答えた。

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連載小説;ミスファンノベル

俺が片づけた(11)

 私もまた同じように洗っては積んでいった。その作業をしながらふと気づいた。そうか、まず入り口ではスリッパ。次は桶、さらにイス。どれも客が使うものだ。そうして、使うときにはそれを意識せざるを得ないもの、なのではないか。それを使う客は、そのものだけではなく、どうしたってこの男に気を使わざるを得ない。結果として、会釈したり、声をかけたりするようになるのだ。ふーん、そうだったのか。

 私は、次にこの男のする行為に思いをめぐらせた。こんどは風呂から上がったときだ。何が使われるか。衣類かごである。男は必ずそれを片づけるはずだ。

 私がイスを積み上げながらそこまで推測していると、いきなり男が振り向いた。

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連載小説;ミスファンノベル

俺が片づけた(10)

 そんなことをしながらでも、一通り片づけるのに、そんなに時間はかからなかった。二人でどんどん積んでいくのであるから、洗い場の中の桶などすぐに積み上げられてしまう。

 これからどうするのだろう、と私は思った。もう終ってしまったのだ、この「仕事」も。

 男を目で追うと、一つの桶を取って尻に敷き、体を洗い始めた。私は男からそれとなく視線を外さないようにして、タオルに石鹸をこすりつけた。

 男はそれから再び湯に入った。やはり目を閉じて、こんどは何をしようか、考えてでもいるかのようだった。 

 さて、男は洗い場に上がると、隅にあった掃除用のタワシを持ってきた、そうしてやはり洗い場に常備されているプラスチック製のイスを洗い始めたのである。洗ってから、また桶のときのように、隅に積んでいく。

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連載小説;ミスファンノベル

俺が片づけた(9)

 この作業のため、洗い場に出してあった風呂桶が無くなっていくので、湯舟から上がった客と新たに外から入ってきた客とが、空いている風呂桶をうろうろと探すようになる。今片づけられた風呂桶は使いづらい。それで、片づけた桶の山から新たに下ろすときには、「働いている」我々の方をちらっと見て、たまたま目が合うと、どうしても軽く頭を下げるようになる。私もいいですよ、という心になって、軽く会釈を返すようになる。これは人情として当然の成り行きであろう。男はどうしているか、と見ると、やはり、目でウン、というように頷いている。

 私はその会釈の返し方を見ていて、気づいたことがあった。桶の山から持っていく客があると、必ずその人の目を見ようとしているのである。持って行く人に対して、一つずつ許可を与えているかのように。

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連載小説;ミスファンノベル

俺が片づけた(8)

 私はそれにどんな意味があるのか、知りたくなった。ただひたすら片づけるだけ、という苦役だ。ボランテイアなのか、こんなボランテイアに何の意味があるというのか。

 この男と同じことをしてみたら、そのわけがわかるかもしれない。

 私はその男の後から風呂桶を片づけたみた。男は、前だけ見てどんどん風呂桶を5つずつ重ねていく。男が右へ行けば私は左へ進み、5つずつ一山にしていく。男は私に気づいたようだった。じろりと振り向いた。その目は洞窟のように暗かったが、奥から敵意のような光が発しているのを感じた。

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連載小説;ミスファンノベル

俺が片づけた(7)

 男はしばらくじっとしていたが、やおら湯から上がると、ぐるりと広い洗い場を見回した。それから、ゆっくり歩き出すと、客が使ったままそこにおいてある風呂桶を、二つ重ねた。次にまた放置してある近くの桶を拾い上げると、その上に積み重ねた。そうして何個か積み重ねたところで、それを両手に抱えて隅のほうに持っていった。数えると、ちょうど5個重ねてから、次の山にしている。何度かその行為を繰り返すうちに、広く雑然としていた洗い場が、どことなく整っていくのだった。

 その動きもやはりだれも注目しない。人の集まるところでは、ときおりそんな気づかいをする男がいるものだからだ。しかし、スリッパをそろえ、こんどは風呂桶をそろえるという姿を連続して見てきたわたしは、この男にとって、その行為になにか特別な意味があるのかもしれないと思い始めていた。

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連載小説;ミスファンノベル

俺が片づけた(6)

 わたしが湯舟に入ると、その男も後からやってきた。湯舟の前で、ていねいに体を洗い始めた。体を洗うのはマナーであるとは思うが、石鹸こそ付けてはいないものの、ていねいに洗っているので、まるで体をまともにあらっているようだった。

 洗いながらやはり眉間にしわを寄せている。男は、こんなときでもこういう顔をするのがクセなのだろう。

 気が済んだらしく、ようやく、足から静かに湯舟に入ってきた。飛び出した頬骨を支えている尖った顎をとっぷりと湯に浸けると、そのままじっと目をつぶっている。なにやら考えごとでもしているふうだった。

 わたしは、こんどはその男がどんなことをするのか、興味をもった。

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連載小説;ミスファンノベル

俺が片づけた(5)

 男のその体を見てから、私は自分の体のことを思った。大手の保険関係の会社で定年間近までさして大きな苦労もせずにここまで来た。その長年のデスクワークをくりかえしてきた体は、すっかり贅肉がつき、胴回りは1メートルに近かった。鏡に向かうと、しもぶくれの頬、禿げ上がった額がすぐに目につく。その顔を見るのがいやで、最近では髭を剃るときには、カミソリの先しか見ないようにしていた。

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連載小説;ミスファンノベル

俺が片づけた(4)

 立ったままではその作業はできない。座った時など素っ裸の両足の間に、揺れるものが見えたが、男はそんな自分の姿に全く頓着していないようすだった。

 きっちり整えると、薄汚れたスリッパも、新品のような光を放った。周囲の人はあまり関心を示していないようだった。それというのも自分たちがだらしなく履き捨てたりしたものを、同じ入浴客から整えてもらって、少し気恥ずかしい思いがあったのだ。

 男のようすからすると、まだ湯に入る前らしく、灰色の肌は干からびたようで濡れてもいないし、鳥肌さえ立っているようでもあった。まだ秋口とはいえ、このあたりの山間部では日が落ちればグンと冷え込む。

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連載小説;ミスファンノベル

俺が片づけた(3)

 ロッカーの鍵でも落としたのかと思って様子を見ていたが、どうもそん風な動きでもない。私は、しばし、タオルを前にあてがったまま突っ立って見てしまった。

 男は、出口の方にスリッパの先を向けるようにして、揃えなおしているのだった。自分のだけではない。何十とあるスリッパを端からきちんと並べかえていく。眉間にしわがよっているところからすると、(まったくしょうがないな、利用者のマナーが悪くて)とでも思いつつ手を動かしているように見えた。

 男は40がらみ。背が高く、痩せて、スリッパを揃える腕は細く伸び、胸から腰の辺りににはあまり筋肉もついておらず、大腿骨が飛び出していた。しゃがんでも腿の肉はスジ肉のようだった。尖った頬骨の間にある眼球は落ち窪み、奥の方から鈍い光を放っている。

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連載小説;ミスファンノベル

俺が片づけた(2)

 私も、汗臭いシャツを肌から剥がすようにして脱ぐ。60歳になろうという体からは、すでに老人のような饐(す)えた匂いが立ち昇る。自分でも不快だった。

 くるりとパンツまでに脱ぐと、タオル一枚持って湯船の入り口に向かう。その時、脱衣場の入り口付近にしゃがんでいる男の姿が目に入った。素っ裸で、しきりに入り口のスリッパの群れの中で、檻の中の動物のように動き回っている。

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連載小説;ミスファンノベル

俺が片づけた(1)

 傾き始めた太陽のだだっ広い光の帯が、ハイウエイから見下ろす湖を、黄色い大きなシートのように覆っている。

 朝から高原を軽いウオーキングのつもりで歩き回ったのだったが、疲労感がこれまでになくいつまでも足腰に残っていた。

 アクセルとブレーキを交互に踏むだけの右足のふくらはぎが、ときおり引きつりそうになる。このあたりで風呂にでも入って帰ろう、そう思った。 

 ちょうど走っている付近に、大きな日帰り温泉ができたはずだ。思い切ってハイウエイの降り口から車を出す。勘を頼りにすぐに左折。小さな家並みを抜けると、畑の真ん中にやけに大きい温泉の看板が見えた。

 いまどき、500円なら安い。

 更衣室はかなり広かったが、週末とあってかなり込み合っていた。裸の男達がしきりに行きかっている。

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連載小説;ミスファンノベル

少しずつ(12)

 花壇がほぼ半分ほど出来上がってきたころのことだった。私は夜勤がたたって疲れ気味だったので、昼から休暇をとって帰ってきた。「ただいま」

私は声をかけたが、いつも帰ってくる妻の返事がない。買い物にでも行ったのであろうと思い、そのまま玄関から上がって縁側の方を覘くと、そこにワイシャツの袖をまくった男の背中と、彼に向き合っている妻が見えた。

 ふたりはなにやら熱心に話し合っている。時に笑い声も聞こえる。私はなんだか声をかけるのも憚られて、鞄を置くとそっと表へ出た。

 そのまま駅前の本屋へ向かった。特に買いたい本があるわけではなかったが・・。

小一時間ほどして帰ってくると、玄関にはまだ私の鞄は置かれたままだったが、もう男の姿はなかった。私が大きな声で奥に

「ただいま帰ったよ」と言うといつものような明るい声で、「あら、お帰りなさい。きょうはお早いのね」という返事。私が一度帰ったことは知らないらしい。

「Yさんはこのごろ来ているのかな」私が何気なさそうに水を向けると

「そうねえ、その辺に新しい鉢が転がってるでしょ。最近も来られたみたいよ」

・・・どこかが少しずつずれている。

 それから数日たって、、自転車用のオイルを買おうと、ホームセンターへ寄ったときのことだ。ふと園芸コーナーを見ると、二人の男女が顔を寄せてひとつの鉢を見ている。パンジーだ。

  鼻筋の通った色白の女の横顔。なんと妻である。男はY。彼は一つを手に取り、さらにもう一つを別の手に乗せて、妻に笑いかけながら見せている。これはどうかな、という風情だ。私は気づかれないように踵を返して、そそくさと店を出るほかはなかった。

 花壇はますます、さまざまな花々で彩られるようになっていった。

 私が帰ってくると、コーヒー茶碗がふたつ、そのままになっていたり、いつも私が座る椅子が生暖かかったりすることさえあった。私の帰る時刻になったので急いで戻ったのである。

 さすがにこのあたりまでくると、心おだやかではない。

 花壇も縁側近くまで迫ってきて、もう植えるスペースもなくなってきた頃、Yと帰宅途中のバスの中で会った。

「どうもすみませんねえ、我が家の花を可愛がっていただいて」私がお礼を言うと

「いいえ、こちらこそ、いつもおいしいものをちょうだいしています。お礼を言うのはこちらかも・・・。」男の口元が少し微笑んだ。

 ついに少しずつ我が家の大切なものを持っていかれてしまったのか。今度は自分の番だったのだ。

 バスが駅前の本屋を過ぎ、ホームセンターの前に差し掛かった。バスが赤信号で一瞬止まった時、Yが窓の外に誰かを見つけたらしく、そばの私には構わずに、大きく手を振った。

 それに応えて、交差点で待っていた女も嬉しそうに笑みを浮かべて手を振った。

 妻の視線には、隣にいた私を見るだけの余裕はもうないのだった。

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連載小説;ミスファンノベル

少しずつ(11)

 妻は花好きであるが、ビニールの小鉢に植えられてある可愛らしい花を、ただ思いつきのままに買ってくる。そうしては、その辺りに放置してしまうだけだ。花壇にするというような計画性はないのである。

 Yの庭と我が家の庭の間には、竹垣がある。むろん手を伸ばせばすぐに隣の庭である。その垣に沿って小さなビニール製の鉢がごたごたと並んでいる。

 いつものように妻がまたしてもパンジーの鉢を買ってきて、どこへ置いたらいいものか、空いている庭の隅を見回していると、妙なことに気がついたと言う。

「庭の隅の鉢が、きちんと並べられている・・・」妻はそう言って、首をかしげている。自分の性格を自覚しているものとみえる。

 その我が家の小鉢の群れが、しだいにきちんと整列されてきたのである。私には花の趣味はないので、誰かは分からないが他人がやっているのである。

 ある時から、その花の鉢は、地植えになった。これはもう誰かが意識的に、我が家の庭造りをしようとしているのである。

 妻は気味悪がっていたが、誰がやっているのかを確かめずにはいられなくなったらしい。私にはうすうすその「犯人」に思い当たる人がいたのだが。

 妻は朝早く、台所のガラス戸をちょっとだけ開けて、覘いて見ることにしたようだ。

 すると、ある朝、一人の男がこちらを向いて垣根の近くにしゃがみこみ、我が家の庭に手を伸ばし、花を植えている姿を目撃したのであった。

 言うまでもなく、Yである。

「なんだか恥ずかしいわ、あたしがだらしがないのを哂われている様で」

妻は紅茶を入れながら、顔をしかめている。

「そうだなあ、一言言ってくれたらいいのになあ」

 そのうちにご挨拶に、と思っていたが、なんだか言いにくい。そうこうするうちに、花の列は、もはや手では届かないほど、庭の深くまで入ってきたのだった。

 「おーい、この花壇、すごいぞ。Yさんにお礼を言わないといけないな」

 私が庭から妻にそう声をかけると、

「もう大丈夫よ、お礼は申し上げておいたから」

 だが、なぜか、私が家にいる休日には、作業はせずに、ウイークデイの早朝や、夕方にやるらしい。私にYさんに申し訳ないと思った。まるでボランテイアで、他人の庭に花壇を造ってくれている・・・・。

 

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少しずつ(10)

 ラベンダーの次は、バジルとかカモミールなどのハーブ類が数本植えられた。その後、こんどは真っ赤なサルビアが、やはり一列に並んで少しずつ増えていった。こうしてYの家の庭は黒い犬と美しい花々が咲き乱れるという新興住宅としての好ましい外観が整っていったのである。

 私は久しぶりに陽だまり公園へ行ってみた。そのときは妻もついて来た。公園の周りは花壇としてきれいに整備されていて、四季折々の草花が楽しめる。ゆっくり歩きながら咲いている花の名前など口にしていた妻が、私の袖を引いた。

「ちょっと、見て。このラベンダー。花と花の間が変に空いていない?以前はきっちり詰めて植えられたあったと思ったけど」

 指差すところを見ると、そう言われれば、なるほど花が数本入るスペースが空いている。その空いているところの土が少しえぐれて小さな穴ができている。誰かが急いで引き抜いたのか。だが、言われてよく見れば、ということであって、そのまま通り過ぎてしまう人の方が多いと思われる。そんな程度の乱れ方である。

 Yが散歩するコースの中に、明らかにあの公園がある。この界隈では他に犬を遊ばせるスペースはない。ただ住宅地の中だけぐるぐる回るはずはない。すると、あのラベンダーが一列に並んだ公園の花壇の傍らもとうぜん通ることになり、しかも早朝か日暮れ、人目のつかない時である。公園の管理人や利用者にも分からない程度に一本ずつ長い期間をかけて抜いてきて、自分の庭に植えてゆけばいつかは公園と同じような体裁のラベンダーの列が出来上がる仕組みだ。

 だがそれがYの仕業であるとは断定できまい。たとえそれが彼の所業であったとしても、自分の家族や庭に影響があるわけではなし、ここは知らぬ半兵衛を決め込んだ方がいい、そう思ってしまったのであるが、それが、大きな油断であったことは、ずっと後になって思い知らされることになったのであるが。

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連載小説;ミスファンノベル

少しずつ(9)

 ちょうどそのころから、妻が(お隣の庭、またきれいな花が増えたわよ。ホラ、あの花)と指差して言うようになった。確かに少しずつ花を増やしているようである。特にハーブ類が多いようだ。

 初めはラベンダーの紫が庭の隅に認められる程度だったが、それが次に気づいたときには、はっきりラベンダーが並んでいると言えるほどの景色になっている。さらに次に見たときにはもうラベンダーは一列に並んでいて、狭い庭とはいえ、ほぼ真ん中あたりまでその列は伸びていた。

 我々夫婦は、少しずつ増えていく花を見ては、もうあそこまで行ったとか、まだ端までは行かないな、などと囁いていたのであったが、ある日、ついに、ラベンダーが庭の端まで届く日が来た。それにはやはりかなりの日数を要していた。

 増えているな、と気づくような量の測定をすることができないほどの、ゆっくりとした速度を保っているらしく、まさにそれはいつの間にかと言う表現でしか言い表せない。

 私にはつぶさにYの行動をウオッチングする暇はないのだが、花好きの妻は台所からすぐに見える位置にあるので、とくに感心が高かったようである。

 その日も朝食の時、紅茶を入れたりパンにバターを塗ったりしながら、いつものようにこんな会話をしていた。

「Yさんがいつも犬を散歩させて帰ってくるでしょ。その時、お散歩グッズを入れている袋に、たしかラベンダーのような花がその袋から顔を出しているのを見たのよ。いつもじゃないけど」

 私は紅茶を持つ手が止まってしまった。

「おい、いい加減なことを言うなよ。もしそうなら、どこからか持ってきたということになるぞ」

「そうよね。まさか、ね」

 私は定刻のバスに乗り遅れることが気がかりで、その会話はそこまでで途切れた。

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連載小説;ミスファンノベル

少しずつ(8)

 私が見るところ、初めの飼い主が現れるにはあまりにも時間が経ち過ぎていたように思う。犬の様子から察するに、犬の心の中では明らかにYの方が主人として優位である。捨てられた犬は、その心の傷を長く持ち続けるという。Yが言うようにあまりにも長い間、菓子というおいしい餌を定期的にもらっているうちに、犬の方としても飼主に冷たくされた=捨てられた、と受け取ったかもしれない。そうして飼主を自ら替えた・・・・。

 つまるところ、今は犬の方が一人の男を捨てたのであった。忠臣はニ君に仕えることはできない。

 若い男は、涙声で昔の犬の名前を一度呼ぶと、踵を返して垣根から放れて行った。犬はただ尻尾を軽く振ってそれに答えるのみ。

 こうしてYは一匹の犬を手に入れ、子どもの信頼を失わずに済んだのである。捨てられた初めの飼主はおそらく大きな心の痛手を受けたであろう。お気の毒というほかはない。

 我が家にとっても隣家に大きな黒い犬がいてくれたほうが泥棒よけにはいい。Yのやったことを、まあいいか、うちにとっても悪いことは別にないし、という妙な損得勘定をしてしまったのである。

 ところでYの家族の一員として黒い犬が、嬉しそうに娘と狭い庭を駆けずり回っているのを見たのも束の間のことと言っていいだろう。犬はほぼ一年で成犬になる。幼犬の面影を残していた犬は見る見るうちに大きくなり、何か月かするうちに、もう小学生の娘の手には負えなくなってきた。

 訓練などまるでしていない、立ち上がれば肩に届くほどの大型犬。それが走ってきて思い切り飛びつく。こうなると、いよいよ父親と母親が(順当に)その世話をすることとなった。夫婦が恐れていたように、である。

 Yが出勤前の朝早く、大きな黒い犬を引き出して散歩に出かける姿を見かけるようになった。彼が行かれないときは、太り気味の妻が両手にリードをしっかり握って、しかし犬に引きずられるようにして庭からでて行く。

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連載小説;ミスファンノベル

少しずつ(7)

 私は台所の戸の間から二人を覗き見することにした。

 腕組みをしているY。その腕には犬の引き綱をしっかり通している。垣根越しに正対するのは痩せたサラリーマン風の若い男。手を腰にして軽く威嚇している態度。

 Yのこの一言、(捨て犬を保護した)という言葉にはとりわけ力がこもっていた。さらに畳み掛けるように、そうして極めつけの言葉を相手に投げた。

「仮に、仮にですよ。この犬がお宅の犬だとしても、ではなぜリードを放しておいたんですか。それは逃げられても仕方がないということになりやしませんか。いや、この犬が放れていた時の様子は、私を見ると尻尾をまさに千切れんばかりに振って喜んでいました。そうです、飼主から逃げてきたという印象でしたよ。もう一度言います。動物保護の立場から、飼主が誰であれ、その薄情は飼主のもとへは絶対に返しません。返してはいけないんです、この子のためにも」

 薄情というきつい言葉。それに、この子、と言ったのである。つまりもうわが子であると強調したのである。こうまで言われて垣根の向こうの男は、黙ってしまった。どうすればこの犬が自分の犬であると証明できるのか。鑑札でもついていれば犬の飼主もわかるのだが、放れた時の首輪は外され真新しくなっている。

 犬は二人の顔をかわるがわる眺めては、どちらにも同じように尻尾を振っている。

 おそらく元の飼主と思われる男は、休日のたびにあちこち探し回ってきたのであろう。そうしてようやくYの庭にいる犬と巡り会ったのである。だが探しているかなりの期間に、犬はもはやYの家族になり切っていたのであった。

 そうは言っても犬はいったん飼われた主人を忘れてはいないらしく、顔を合わせて昔の名前を呼ばれるとさすがに嬉しそうに寄って行くのであった。しかし、また次の瞬間、Yに呼ばれると今度はYの方にすり寄っていく.そうして頭を撫でられると寝転がって腹を見せる絶対服従のポーズを取ってしまう。

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連載小説;ミスファンノベル

少しずつ(6)

 その犬がもうすっかりYの家の一員になってしまったある日曜日、隣から聞きなれない男の声がした。相手をしているのはYである。長屋のような建売住宅であるから静かな休日の朝など、庭でする会話は筒抜けである。言葉はていねいであるが、かなり尖った声が飛び込んできた。

「だから何度も言っているじゃありませんか。この犬は公園の近くを通りかかると藪の中から飛び出してきて、自分の方から私についてきたんです。追っても追ってもついてくるんです。私は走って逃げたくらいです」

 私はそれを聞いてなぜ犬がいるのか、納得した。それから噴出しそうになった。うまいことを言うなあこの人は・・・・。

「でもそれはうちの犬です。私の顔を見れば、ホラ、尻尾を振っているじゃありませんか。返してください」

 半ば哀願するような若い男の声である。

「私は連れてきたんじゃないんですよ。この犬が勝手に私の後をついてきたんですから、捨て犬でしょう。それなら飼ってやらないと可哀想じゃありませんか。近頃は面倒見切れなくなって捨てる人が多いそうですね。可哀想にこの犬もその人に捨てられて公園のあたりをうろついていたんだと思いますよ。それで私に救いを求めていたんだと思いますよ。ですから私がいわば助けてやって、こうして育てているのですから、もうどこへもやれません。すっかり我が家の一員です。もう二度と惨めな思いはさせたくないんです。捨て犬を保護してやったんです」

 もうすっかり犬は捨てられたことになっている。

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連載小説;ミスファンノベル

少しずつ(5)

 これから先は私の想像であるが、初めのうちは自分の犬をかわいがってくれたと思って(ありがとうございます)などと笑顔で言っていた飼主も、そのうちにおそらく注意したに違いない。少し怖い顔出(もう、私の犬に餌はやらないでください・・・)と。

 だが、時すでに遅し。根気良く毎週、それも何ヶ月間か通い詰めたYの勝利は間近だった。飼主が恐れていた通り、その幼犬はYにすっかりなついてしまったのである。

 バスでちらっと犬の話を出した時(あああの犬ですか、勝手に居ついたんです。捨て犬でしょう。可哀想に)という言い方をした。真っ黒い犬で、確かラブラドールとかいう種類の(高価な)犬ではなかろうか。そんな犬が鎖から離れてうろうろするものだろうか。 

 だから私はなぜ犬がいるのか腑に落ちなかった。変な話だと思わざるを得なかった。

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連載小説;ミスファンノベル

少しずつ(4)

 我々の住む住宅街の外れに、遊水地がありその周囲にかなり広い芝生の空き地がある。そこを町が解放していて、いつからか住民は陽だまり公園と呼ぶようになっていた。 

 犬を運動させたくても放し飼いにはできないから、少しでも適当と思われる空き地があれば、犬を連れた人々が一時的にでも放してやるために集まってくる。陽だまり公園に一角も犬の遊び場スペースとなった。

 Yは休日になるとよくその陽だまり公園へ散歩に出かけた。私もその辺りへ行ったときなど彼の姿を見かけて会釈したこともある。

 どうやら彼は休みの日には必ずといっていいほど足を運んだらしい。手に菓子袋をぶら下げているのを見たこともあった。

 Yは中でも人懐こい犬にその菓子を与えたのである。むろん飼主が遠く離れている間に、である。必ず同じ場所で同じ犬に餌を与え続けるとどうなるか。当然犬はその有難いプレゼントの主を覚えてしまう。そうして、遠くからでもその人の傍らへ走り寄っていくようになるのは必定である。

 私も何度かその犬が嬉しそうに尻尾を振りながらYの周りをくるくる回ったり、菓子を貰っていたりする、そんな姿を見たことがある。飼主にとっては迷惑である。犬によっては食べ物でアレルギーを起こすし、それよリ何より、飼主の愛情がもっていかれてしまう。万一咬んだりすることも考えられる。そうなれば大変だ。だからあまり遠くに行かないように見張っているものである。

 だが、その犬はYの根気強い「動物愛護精神」戦略に負けたのである。いや飼主が負けたというべきであろう。

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連載小説;ミスファンノベル

少しずつ(3)

 いつだったか帰宅時間が遅くなり、深夜、タクシーから降りたとき、重いバス停の脚のあたりをしゃがみこみながら抱えている不審な黒い影を見たことがあった。その後姿がYのように見えた、しかし私はかなり酔っ払っていたし、暗い街灯の下でことであるから、彼がその張本人とは断定できなかったのだが。

 新しいバス停の位置は、誰もが承知してしまい、Yもそのことに不審を抱く様子も見せず、バスが着くや否や玄関からさっと出てくるのだった。その様子は、どうやら玄関の中でバスが来るのを待っているように思われた。

私はYとはまだ打ち解けてはいなかったので、さりげなく挨拶を交わす程度であったが、さすがに自分の家のまん前に移ってきたバス停について話をせざるを得なかった。バスの中で朝の挨拶を交わしてから

「このごろバス停が近くなったように思いませんか」

 と目を覘き込むようにして、しかし周囲には聞こえないように低い声で話しかけてみた。

「バス会社の都合でしょう」

 素っ気ない返事。それから鞄の新聞を取り出した。私は(そうか、それでよかったのか、自分の不満があるわけではないし)そんなところに落ち着いてしまったのだった。

 ある夜、隣家からワンワンと鳴く犬の声が聞こえてきた。犬がいるのである。

 それから小学生(5年生だったか)の女の子が、狭い庭の中で抱っこするには少し大きめな黒い犬の毛をすいたり、ボールを投げて遊ばせたりしているのを見かけるようになった。まだ成犬ではなさそうだが、これからかなり大きくなりそうな感じだった。

 どこの家庭でもそうだが、まずは子どもが「犬を飼って」とせがみ、条件として世話をする約束をしたのも初めの何週間か、すぐに散歩にも行かなくなり気が向けば餌をやったりする程度のかわいがり方になる。すると散歩は父親、そのほかの世話は母親ということに落ち着く。親はそれを知っているから、大いに反対するのであるが、あまりにもうるさく言われ続けるうち、情操教育にも良いか、という話を夫婦でするようになる。そこらあたりでもう親子の争いもそれまで、となる。

 ペットショップで売られている犬の値段は、ダンボール箱に捨てられている雑種犬を拾って育てた年代の我々からすると、まさに目の玉の飛び出るような高価なものである。

 命を買うのだから高くても、と思う反面、いやいや命に値段をつけるなんておかしい、という思いもする。だが、今はそんなことは言っていられない。もはや子どもへの戦略を練らなければならない段階なのだ。

 飼った後でも、やれ予防注射だ、ドッグフード代だ、と確実に出費は続く。それに血統書つきの犬は、病気に弱いという。人間より医療費は高くつくかもしれない。

 Yはともかく、ペットショップに行って、子犬を見てみようと思った。

 ところが、彼はそこで仰天してしまったらしい。予想していたよりもはるかに高価だったのである。それでも何とか子どもをなだめなければならない。私にもその苦渋はよくわかる。(しばらくは犬の話しはタブーですってよ)妻同士の立ち話から得た情報である。

 それから何ヶ月か経ってからのことである。犬が突然Yの家の庭にいるようになったのは。(続く)

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工業だって大切

ということは言わずもがな。

だから、工業だって日本の根幹だしそれがなくては、日本は食ってイカレナイ。

だが、農地の荒れ放題見て、農薬盛りだくさんの野菜食わされ、ネオンの町でらひらするというワシらの生活はヤッパリすこし間違っているといわざるをえない。

だからどうすればいいのか。それはワシらのような庶民ではいかんともなしがたい。

それはそうとして、無農薬、有機肥料だけの野菜、それはうまいぜよ。間違いなく。

本日これまで。

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デビュー(連載その16・最終回)

 チャイナドレスで着飾って裏口から出てきたのは、中国の小鳥使いのベテラン芸人といった風格さえただようハツであった。

 タカシが初演だからと司会をやってくれた。輪になっている見物人をかき分けて、小鳥ショーの芸人、ハツが、、小鳥たちを乗せたかごを引きずって、舞台正面のスロープから上がった。見物人たちは、タカシの巧みな話術に誘われて思いきり大きな拍手を送った。

 ぺこりと頭を下げたハツ。なんだかもうこれでいっぱしのショーマンになったような気がしはじめていた。

 舞台のハツは、小鳥たちの衣装と、じぶんの靴が気になった。買いに行こう、わずかな蓄えの中から思い切って整えよう。タカシが大声で紹介するのを聞きながら、そう思っていた。

                           ー完ー

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デビュー(連載その15)

 ハツは、もう引っ込みがつかなかった。タカシの顔を見たり噴水の方を見たりしておろおろしていると

「さ、支度しましょ。こっちこっち」

 手招きされるままにしたがうほかはなかった。

 菜香軒の裏口からはいると、タカシとケンジは二階へトントンと上がっていく。ハツは、裏玄関の中に小鳥の車を置くと

「ちょっと待っててよ。オカアチャンすぐ来るからね」

 そう言い置いて、じぶんも二人の後をついて上がらざるを得なかった。

 二階の部屋には、あの晩のひょろりと痩せた、まん丸い目の女が立っていた。

「おばちゃん、おはよ。あの時はゴメンね。きょうはあたしのおごりよ。たいしたことはできないけどさ」

 部屋にはいると、テーブルの上にラーメンと餃子が一人前、置いてあった。

 ハツは、何がおきているのか、まだ飲み込めないでいた。ただ、三人の若者があの晩からじぶんを慕ってくれるようになったらしいということだけはわかった。ともかく、この流れに乗っていくしかない、そう心に決めざるを得なかった。

 喉に通るのもよくおぼえないうちに、食事はすんだ。ころあいを見計らったように、またあの女が階段を上がってきた。

「おばちゃん、きょうデビューだってね。衣装、用意しておいたからこれ着るといいよ」

 手に持っていた紙袋から、ズルズルと中の物を引き出した。

 派手なチャイナドレスである。

「あたしがここで働いていた子どものころの、お店の服。だから遠慮しなくていい物。たぶん、ちょうどいいくらいの大きさだと思うよ」

 女はもうその服をハツの前に持ってきて体に合わせている。

「えっ、ほんとうにこれ着るのかい」

「そうよ、おばちゃん。ショーだから派手でいいのよ。似合うと思うよ」

言われるままに、ハツはドレスを体に合わせた。女の言うように、寸法はちょうどいい。子供用の服だから色合いといいデザインといい、思い切り派手であった。

「1時まで、もうそんなに時間がないから、着ましょうよ」

 女は、ハツにドレスを渡すと、着替えたころにまた来るから、と言い残して階段を下りていった。

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デビュー(連載その14)

             11

 翌日は正月3日。開店日だ。ハツがいつものとおり菜香軒の前まで来ると、だぶだぶの真っ赤なジャケットを着た若い男が、にこにこしながら

「おばちゃん、おっはよう」

 両手を上げて出てきた。

「あれ、なんだい。タカシじゃないか。ばかにゴキゲンだねぇ」 

 立ち止まったハツが、答えた。

 すると、すぐその後から、真っ黒なコートを引きずりながらもう一人、若い男が出て来た。大工をしていた時は後姿だったのでよくわからなかったが、どこかで見たことがある男。あの晩の若い男、ケンジだ。男はハツに

「よっ、小鳥ショーのハツ様。待ってました」

と言いつつ、広げていた手をぽんと威勢良く打った。

 正月とはいえ、二人の派手ななりの若者が、商店街の通りに立ちはだかって声を上げたので、通りがかりの客たちは、なにかおもしろいことが起こりそうな雰囲気を察して、だれもが足を止めた。

「さあさあみなさまがた、ここにおりますのは、小鳥に楽しい芸をお見せすることができる小鳥使いの名人、その名も、ハツさんでーす。正月興業でーす」

 黒いコートの男は、野太くよく通る声だった。アーケードの屋根にこだまして、響きわたった。 

 ハツは、びっくりして、あわてて手を振って二人の声を止めようとした。

「ちょっと。やめてちょうだいよ。そんな大声出して。恥ずかしいじゃないの」

耳の付け根まで、真っ赤になっている。

「ハツさん、言ったじゃないの。わたしは小鳥ショーをやっているんだって。そうでしょ。ま、ここはオレにまかせてよ、ね」

 そこまで言うと、こんどはタカシが噴水の広場を指差して、また大声を上げた。

「本日は、正月早々のショーですので、ご挨拶程度とさせていただきまーす。あちらの舞台にて、午後一時より開演とさせていただきまーす」

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デビュー(連載その13)

「おめでとう、おばちゃん。ところで、これなにができるかわかるかい。」

 ハツがいつものとおりに、噴水の広場まで小鳥たちを連れてくると、タカシが大きな目玉をいたずらっ子のようにさらに大きくさせてそう言った。

「なんだろうねぇ。お祭りってぇ時期じゃないし。商店会で芸能人でも呼ぶのかい」

「へへへ、できてからのお楽しみだね」

 料理人らしく器用な手つきで大工顔負けの道具の使い方。みるみるうちに鋸を引き、釘を打っていく。店が休みの日なのだ。車でも飛ばして初詣に行くなりして、遊びに行きたいだろうに、朝から夕方まで二人で黙々と作業していた。二日もかかるとどうやら形が整った。

 噴水を囲むように丸く切れ込みを入れた長方形の低い台である。台の前面はスロープになっている。高さもせいぜい30センチほどであるから、はしごのような可愛らしい階段二つをその台のそでにつけると完成だった。

 まだ木の香りのする真新しい舞台だった。

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デビュー(連載その13)

「あたしは、ここでいい。せっかく言ってもらったのに、すまないけど」

 決断したような声の調子だった。

タカシは、内心失意をおぼえた。

「あたしには、小鳥たちの芸を見せるという仕事があるし、それを見て喜んでくれる人がいるんですよ。それで少しは商店街の人寄せにお役に立っている。そう思っている。それで、レストランからご褒美にお食事をいただいているんだから、残飯もらいじゃないと思っています」

 きりっとした声が狭い小屋の中に響いた。

「そうか、残飯というのが悪かったんだ。すまない」

 タカシは、なにがきげんをそこねたのかが、ようやくわかた。それで素直に頭を下げた。ハツの腹のすわったところは、先日のことではっきり見て知っていた。無理じいはできっこない。そういうハツだからこそ、二階に住まわせてやってもいいとタカシはタカシでチンピラらしい義侠心を出したのだった。 

 タカシは、このハツの心根にさらに感激してしまった。このあいだの晩のみごとな啖呵といい、今は今でこのスジの通し方。(このオバサンは、言っちゃ悪いがこんなブルーシートの小屋に住んでいながらりっぱなものじゃないか。いまどきいないぞ、こんな人。オレたちの女親分になってもらってもいい・・・)

 そのことがあってから、歳が明けた正月休み。噴水の広場に大工道具を持って、しゃがんでなにやら作り始めた二人の若い男の姿が見られた。タカシとケンジである。どうやら小さな台のようなものを作っているらしかった。畳み二枚敷けるかどうかという程度の広さである。

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デビュー(連載その12)

                8

 そんなことがあってから、数日たったある晩、ハツはブルーシートの外から声をかけられた。

「おばちゃん、ちょっといいかな」

 若い男の声だ。

 小鳥に餌をやっていたハツは、いぶかしそうに振り向いた。こんな家に、それも夜、訪ねてくるものはまずいなかったのだ。

「はい、なんですか」

 すると、入り口のシートの裾が上がって、タカシが現れた。

「ああ、なんだい。タカシさんかい」

 男は立ったまま

「おばちゃん、どうだろうな、オレんとこの二階に引っ越してこねぇかい。ここよりはチット暖かいぜ。突然だけどよ」

 ハツは、いったいなぜそんなことをこの男が言い出したのか、見等がつきかねたが

「えっ、そりゃまたどういうわけだい。ほんとうに急にさ」

 タカシは、テントの中に一歩はいると、そこにあった丸い木の椅子を引き寄せた。

「いいかな、これに座って」

「ああ、どうぞ」 

 ハツも畳んである布団の上に腰をかけた。

 その話はこうだった。二階の一室があいているので、そこなら引っ越してきてもいい。むろん家賃などいらない。オヤジさんも毎日見ていたハツが、そんなところに住んでいるとは知らなかったし、息子が世話になったらしいその人を、二階に住まわせるということには、強いて反対はしなかった、というのだ。あの晩のことをじぶんからオヤジさんに話をしたものとみえた。

 ただ、来るには少し約束があるという。中華料理屋の二階に住んでいながら、商店街のよそのレストランから残飯をもらうような生活はちょっと・・・と、タカシは口ごもった。

「ふーん、そうですか。残飯もらいねぇ・・・」

 ハツはじぶんの足元をながめた。それから爪先をくるくると回した。

 ハツにとってはいい話だと思っていたのだが、あまり喜ぶようすでもないので、タカシは何か気に入らないことを言ってしまったことに気づいた。それで、暗い電灯の下のハツの表情をそれとなくうかがうのだった。

 しばらく二人とも何も言わなかった。ただ小鳥たちがあいかわらずピーピーとひっきりなしに鳴き続けていた。

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デビュー(連載その11)

                 7

 次の日、ハツがいつものとおり、商店街を小鳥たちと歩いて菜香軒の前まで来ると、待っていたのだろう、タカシが白い割烹着のまま飛び出してきた。

「ちょっとちょっと、おばちゃん。こっちへ来てよ」

 ハツの袖を引いて、裏口の方へ行く。

「なんだい、そんなに強く引っぱらなくっても行くからさ」

 小鳥のかごを、ガラガラ音をさせながら、下駄を履いた男のあとをついて行った。

 男は、店の裏口まで来ると、ふいにしゃがんでハツの顔を見上げた。そうして両手を合わせた。

「すまなかったな、おばちゃん。きのうのことだけどよ。悪いけどよ、うちのオヤジには黙っていてくれよ、な」

 拝むように頭を下げた。大きな目が真剣だった。

「わかっているよ、知らんふりしていればいいんだろ」心得た口振り。

 タカシはそれを聞くと、店の裏口から入り、すぐに大きな紙袋を持って出てきた。

「チャーハンとチャーシュー。特別製だからうまいよ」

 用意してあったのだろう。さっとハツの前に出した。

「あら、すまないねぇ。こんなにしてもらってさぁ」

 少し間をおいて、両手を出した。

「じゃ、遠慮なくいただくよ」

「あいよ、また来た時、おいしいもの取っとくからさ」 

 タカシは、ハツの背を向けるとそそくさと裏口から入っていった。

(明日から1週間ほど田舎へ行きますので、連載はお休みします)

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デビュー(連載その10)

 男は、その剣幕に気圧(お)されて、1歩下がった。 

 それから、ハツの顔をのぞきこんだ。

「あれ、おばちゃんじゃねぇか。小鳥のおばちゃん」

 背中を追って、ぐっと顔を近づけた。声のトーンが急におとなしくなった。

「オレだよ。菜香軒のタカシだよ。なんだ、ここに住んでいたのか」 

 ハツも、細い目を凝(こ)らして、男のサングラスの中をのぞきこんだ。

「ああ、アーケードの中華料理屋さんかい。なんだい、そんなら早く言ってくれたらいいのに」

「暗くてよ、顔が良くわからなかったんだ。スンマセン」ぺこりと頭を下げた。

 それから男は、なにが起きたかよくわからないという風で、ぼんやり腕組みしている女に

「おい、こっちへ来い。手伝え。ケンジを連れて帰る」と手招きした。

 女は黙って腕組みを解くと、ブルーシートをかき上げて、中にはいった。中のケンジといわれた男は、まだ頭をかかえてうずくまっていたが、女とタカシから両腕をかかえられると、よろよろと立ち上がり、ふらつく足で外へ出た。

「おばちゃん、ごめんよ。これであったかいモンでも食べてくんな」

 タカシは、あいている片手で、ハツの頭の上から何枚かの札を差し出した。

 その札を見て

「これは多過ぎるよ。一枚だけもらっとくよ。小鳥の餌でも買わせていただくよ」

 一枚だけ取ると、残りはタカシに返した。

「そうかい、それじゃあ、すまねぇけど、それで勘弁してくんな」

 言い置いて、男をずるずる引きずると、ケンジの耳元でなにやら声をかけながら、後ろのドアを開け、無理やり押し込んだ。

 車はライトをつけると、すぐに走り出した。助手席の女は、こんどは愛想笑いをしながら、ハツに会釈した。テールランプが角を曲がって見えなくなるまで、ハツは、見守っていた。

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デビュー(連載その10)

夜の闇をかん高い声が切り裂く。

「おいこら。そこの。このお荷物はどうしてくれんだい」 

 今しも車に乗り込もうとしていた、これもだぶだぶの赤いジャケットを着て、夜なのにサングラスをかけている上背のある、やせた若い男に向かって、鋭利な短刀できりつけるようなハツの声が刺さった。

 カーデガンを羽織った、やせぎすのこれも背の高い女と、男が振り向いた。

「なに、そいつか。そいつは、おばちゃん、あんたにあげる。かわいがってやってくれ」

「ふふふ」

女がそれに応じた。ハツはそれにはかまわず

「ちょっと待ちな、あんちゃん。てめぇたちが勝手にあたしのうちにこんな男をふっ飛ばしておきながら、そのセリフはねぇだろうよ。とっとと連れて帰れ。そっちのアマもへらへらしてねぇで、あんちゃんに手伝いやがれ」 

 ハツが女に顎をしゃくってみせた。

 男はそれを聞くと、車の中に伸ばしていた足を外して、老婆に向き直った。それからゆっくりサングラスをはずした。

「よう、おばちゃんよ。けっこうな口たたくじゃねえかよ。おばちゃんも怪我しねぇうちに、言うとおりにしておきな」

 ハツは、1歩前に出た。声は年相応にかすれ声だが、なかなかどうして、対するものを圧倒する勢いがこもっている。

「なに言ってやがんだい。こんな見ず知らずの男を、どうしろってんだ。てめぇの仲間だろ。連れて帰れってのがわからねぇのか。だいいち、ぶっ壊されたこのうちはどうしてくれるんだい」

「ふふふ」女は腕組みしながらニヤニヤして、啖呵を切る老婆を見ている。鼻でわらったのは「うち」と言ったからだった。

 しっかりした持ち家もない年寄りから、思ってもみないみごとなアッパーカットを喰らったのだ。ついに男が切れた。怒りを声に出してすごんだ。

「おい、ババア。優しく言ってりゃぁ図に乗りやがって。ぶっ殺されてもいいのか。こんなところの年寄り、一人ぐれぇ、いまいなくなっても、日本国中、誰も気がつかねぇ。え、そうだろう」

 車の前を回って、男が向かってきた。ハツとその男の距離は、目と鼻の先という感じだ。

「おうそうかい、あんちゃん。ぶっ殺すと言ったね、いま。ようしわかった。ジョウトウじゃねえか、いますぐぶっ殺してもらおうじゃないか。さあやれ。てめぇの言ったとおり、こんなババア一匹、この世からいなくなったって、だれもなんとも思いやしねぇ」

 背中の曲がった小さな年寄りが、白髪頭ふりたてて、その顔を男に近づけた。

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デビュー(連載その10)

 そして、車のドアのガチャリと開けられる音。ついで男のドスのきいた声。

「だから降りろって言ってるだろうが。え、この野郎」

 もう一つのドアが開く音に続いて、革靴だろう、カッカッとするどい音が聞こえた。

「テメエが謝らねぇからいけねぇんだろ。悪けりゃ悪かったと素直に言やぁいいんだよ。な、違うか。このトンチキ」

 その声の後からすぐに

「ねぇ、もういいかげんにしてよ。二人とも」

 これは若い女の声。

「うるせぇ、おめぇは引っ込んでろ。もとはと言えば、おめぇがこいつに色目をつかうからいけねぇんだ」

 ハツは、スイッチにかけていた指をおろした。突っ立ったまま、外のようすをじっとうかがっていると、どちらかの男が手を出したらしく

「何しやがる。やるのか」

 それからすぐに、もみ合うらしい激しい物音がした。

 すぐにドスンと人が倒れるような鈍い音がすると、入り口のブルーシートから、長く真っ黒なコートを着た男が転げ込んできた。背中を丸めて一回転すると、ちゃぶ台の角に頭を激しくぶつけた。ウーン、と唸りながら頭をかかえてうずくまった。

「おい、帰(けぇ)るぞ。早く車に乗れ」

初めに聞いた男の声。女に言っているのだろう。

 その声が終らないうちに、ハツは飛び出していた。

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デビュー(連載その9)

 暗い灯りの下ではあったが、親子(といっていいだろう)6人、むつまじくその日の夕食をすませた。鳥たちには、水飲み用として部屋の隅に陶器の水差しが置いてある。めいめいが、その水場に行っては、頭を上げながら水を飲んだ。

「もう遅いからね。いい子だからねんねしましょうね」

小鳥たちはその合図でちょこちょこと鳥かごにもどる。そうしてまたひとしきり、寝る前の騒ぎを起こす。そのようすは子どもたちとなんら変わらないのであった。

 ハツは、板敷きの上にそのまま置いてあるだけの薄い布団を延ばす。

「さあさあ、お母さんも寝ましょ。きょうもみんないい子だったねぇ。お母さんもきょう一日、いい日だったよ。何か困ったことも難しいことも起こらず風邪も引かず、こうしてネンネできる。ありがたいありがたい」そう言いつつ両手を合わせると、目を閉じた。

                 5

 それから布団の上に伸び上がって、電灯のスイッチをひねろうとしたときだった。家の前に車の止まる音がした。

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デビュー(連載その8)

 店の前を通りかかると、それとなく待っていた従業員が

「おばちゃん」

と小声で呼び止める。ハツはこくんと一つうなづいて人目につかないように、裏へ回る。店としても通りの正面で「残飯」を渡すことは憚られた。従業員は、きょうは寒かったね、などと世間話らしいことをちらっとすると、紙に包んだ夕食を渡すのである。

「いつもどうもすみません。ありがとね」

「はいはい、いいのよ。またね。寒いから小鳥ちゃんたちにも風邪を引かせないように、ね」

 ハツは、その紙包みを押し頂くようにして頭にこすりつけ、それからニコッと笑うと鳥たちの乗っている台の下にある狭い空間に、おし込む。そうして、小鳥たちと話をしながらアーケードを一周するのである。

 ハツとしては、人通りの激しい商店街をゆっくり歩くのは、小鳥たちにショーをやらせているつもりであった。だが、ただ歩いて小鳥たちが人間の言うことを聞いているのを見たからといって、だれも見物代などくれたりはしない。ハツはその点、少し工夫すればよいのだが。

 たとえば、人通りが激しい時に、道のわきに寄って、いったん立ち止まり、小鳥たちを歩き回らせ、そこで一羽ずつに呼びかけてもどってこさせる。それだけでけっこう人目を引く度合いは高まるはずだ。さらに、噴水のある広場では、噴水の陰に行った小鳥に呼びかけて、手に乗せてみたり、頭まで登らせるなどの「芸」をゆっくり見せればいい。その時に、少し恥ずかしいかもしれないが、目の前に帽子でも置いておけば、何がしかの見物代は入るだろうに。

 ハツは、小鳥たちとのやりとりには自信をもっていた。まるでじぶんの子どもたちのように言いつけは守るし、気持ちも通じ合っていると思っている。だから人通りを小鳥たちと話しながら歩くだけで認めてもらえると思っている。それなのに、いまだに喝采してくれないのはなぜなのか、わからないのだった。

 だが、食べ物屋の人たちは、よくわかってくれている、と思っている。それで、そのお代として、おまんまがちょうだいできるのだ、と信じている。だから、店のあまりモノではあったが、それをもらうことは、ショーにたいするあたりまえのギャラである、と納得していたのである。

 つまり、ハツにしてみれば、店が見物人に代わってお代を払っているのであった。

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デビュー(連載その7)

               3

 ハツはいつものことなので、そんな音にはかまわずに、じぶんの夕食にかかった。夕食といってもつくるわけではない。さきほど歩いてきたレストランから頂いてきた残り物をビニールの袋から出すだけである。何軒かあるレストランでは、ハツはもうおなじみさんだ。きっちり定刻にあらわれるこの小鳥のおばちゃんを待っている店がかならず数軒はあった。

 ちょっとしたつまみや、オードブルの一品の中などに、箸をつけない客がかならずいるものだ。ときには、ハンバーグがまずいなどとわがままを言って、少し口をつけただけでそのまま残したりする子もいる。そういう「料理」を店のものもそのまま棄てるのは、自分の店や腕を軽く見られているようで腹立たしいので、ハツが来るのを待っているのである。

(お詫び;インターネットの不調で、予定どおりにブログ連載ができませんでした)

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デビュー(連載その6から)

(おことわり;21日まで、連載を休みます)

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デビュー(連載その5)

 そのシートをめくりながら

「さあ、着いたよ。おなかがすいたねえ、おまんまにしようね」

と、鳥かごに呼びかけた。

 それから裸電球のスイッチをひねる。3畳間ほどの広さの空間の中に、布団1組と四角い小さな木のテーブルが置いてあり、隅のほうにもなにやら生活必需品がごちゃごちゃと置かれている。

 テーブルのかたわらに置いてある石油ストーブに火をつけた。灯油が不完全燃焼するときの不快な臭いが立ちこめる。

 ハツは、隅の山の中から小鳥たちの餌袋をとりだした。それからテーブルの上に大きな皿を乗せ、その中に餌を山盛りにした。小鳥たちはそれを見るとわれ先にかごから走り出て、餌の山に突進した。彼らの食べ方は、食い散らかすという表現がぴったりの、騒々しいありさまである。

「みんな。なかよく。自分だけ食べればいいというような料簡じゃいけないよ。弱い子を先に、いいね」

 だが、そんな注意にはおかまいなしだ。うまく場所が取れないと見るや、ほかの鳥の背中に乗って、首を伸ばして餌を突っつくのもいる。その間、ピイピイという鳴き声や羽をばたつかせる音やらが、小さな部屋の中に充満する。ちょっとした騒ぎである。

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デビュー(連載その4)

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ひとしきり小鳥たちを遊ばせると、ハツはゆっくり腰を上げる。

「さあ、もうおうちへ帰りましょうね。寒くなってきたからね」

 もと来たアーケードの舗装道路を、おじようにゆっくりした足どりでもどる。小鳥たちはもうかごから出入りはしない。散歩は終った、あとは真っすぐに家に帰るんだ、とでもいうように、おとなしく車に、しかし、それぞれの決まったポジションに止まっている。

 ハツと小鳥たちは、商店街を抜けるともう真っ暗になった夜道をたどった。こうこうと目をあざむくイルミネーションなどの街の明かりも1歩裏道に入ると、街灯だけの閑静だがさびしい住宅街になってしまう。

 コロコロと規則ただしい小さな車輪の音をさせて、自分の住みかへ向かう。もう鳥たちにも話しかけない。鳥たちも目のきかない夜は怖いのだろう、じっとしている。

 高速道路の橋げたの下に、低い屋根が見える。ハツの住みかだ。

屋根といっても、ブルーシートが木の柱の上に乗せてあるだけだった。

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デビュー(連載その3)

 ハツの押している車の中には、5羽の小鳥がいた。それぞれに人間の子どものように名前がついている。

 かごの中に入っているものもいるが、かごと車の間にある狭いスペースを、大きな広場のようにしきりに動き回るものもあり、中にはハツの握っているTの字型の取っ手のはしに乗るもの、赤茶色の太い糸がところどころほどけているハツのセーターの肩に止まって、高みの見物するものなど思い思いの動きをしている。まるで小鳥の移動式見世物小屋のようであった。

 ハツは、噴水のふちに腰をかけた。目の前にかごつき改造乳母車を置いて、しばらく鳥たちが忙しく出入りするさまを見つめている。鳥たちは2羽3羽と車から飛び降りてはそのあたりを歩き回るが、たいていは、せいぜいハツから数歩のあたりまでで、それ以上遠くには行かないのだが、中にはやんちゃなヤツもいる。噴水の池に首を突っ込もうとしたり、噴水の向こうがわへ隠れてしまうものもいる。すると、すかさずハツの声が飛ぶ。

「あざみちゃん、隠れちゃだめでしょ。わかっているんだよ、オカアチャンには」

 すると、あざみちゃんと呼ばれた小鳥は、ぐるりと噴水を回って、オカアチャンこと、ハツの前に戻ってくる。それからちらっとハツの顔を見上げる。

 池に首を突っ込んでいる小鳥も呼ばれてしまう。

「しゅんちゃん。そのお水は飲んじゃいけません。おなか、こわすよ」

 すると、池から顔を上げてハツの足元へよちよちともどってくる。ハツはその小鳥に手の平をさし伸ばす。しゅんちゃんは、しわくちゃになったハツの手の平に両足をそろえて飛び上がり、そのままトントンと腕をかけ上がると、肩まで行って、そこで止まった。それからさらに首の後ろに回って髪の毛伝いに頭まで上がろうとする。ハツはそれを黙って許している。小鳥は頭のてっぺんに行き着くと、得意げにあたりを見回した。

 それを見ていた別の小鳥が、自分も登ろうとハツの足元に近づいた。彼女にはその小鳥の気持ちはとっくにわかっている。

「けいちゃん、あんたはだめ。すぐオカアチャンの頭の上でウンコするから」

 ハツににらまれたけいちゃんは、その声にすねたのか、向こうをむいて体を左右にふりつつ遠ざかっていった。

 これで4羽だが、残った一羽はどこにいるかというと、鳥かごの中にさし渡してある1本の木の上にじっと止まったままだ。

 車が移動している最中も、また噴水のかたわらに止まった時も、ただじっとしている。目だけはきょろきょろとあたりをうかがっているが、外へ出ようともしないし、時おり羽の中に首を突っ込んで何かをついばんでいるくらいで、あとはその棒の上を行ったり来たりしているだけだ。ハツはその鳥には声をかけない。しかし、時おり目をやるのは、つねに気にかけているということだ。

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デビュー(連載その2)

 人ごみを歩くのは慣れているのか、踏まれもしないで車にすぐにもどれるあたりを、首を振りつつひょこひょこと歩いている。 

 ハツはそれを見ながら

「危ないからね、踏まれないようにね」と声をかけた。

 セキセイインコは、その声が聞こえているのか、うなずくように首を振りながら、おなじペースでよちよちとついてくる。 

 そのうちに、やや人ごみの切れた噴水の近くまで来ると、小鳥は少し嬉しくなったらしく、広い所に向かって小走りに走り出した。ハツがすかさずかん高い声で呼びかけた。

「いさおちゃん、だめよ、もどっておいで」

 すると、行きかけていた小さな足がくるりと向きを変えてハツの方にもどってきた。そうして、車のへりにぴょんと飛び乗った。

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デビュー(連載その1)

 1 後ろからコロコロと小さな車輪が引きずられるような音がするので、降り返って見ると、にぎやかな繁華街にはおよそふさわしくない、小さな手押し車がやってくる。

 押しているのは、髪に白いものがまじり始めた背の低い女。行きかう人々がいわゆるお出かけ姿で着飾っている大都会の商店街の、それもど真ん中では、いまどき珍しいモンペ姿である。

やや猫背になりながら歳末の人ごみの中、じょうずに車を押してゆくその女の名は、ハツといった。

 その車のひと抱えほどしかない箱型の荷台の真ん中には、鳥かごが乗っている。どうやら乳母車を改造したようだ。

 鳥かごはいっぷう変わっている。カゴなのに扉がない。だから小鳥たちが自由に出入りしていた。いましもセキセイインコと思われる黄緑色の鳥が、手押し車のへりから、人の足が忙しく行きかうアーケードの敷石の上に、ぴょんと飛び降りた。

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