日記・コラム・つぶやき

今頃昭和の時代を

振り返ることがある。

ワシら、昭和の時代が人生の前半であるから、すでに懐かしいという感情が起こるのも止むを得ません。

終戦後のニッポン。そこで生まれ育ったワシらの時代。まだ爆撃の後が残っている工場の廃墟が、遊び場であった。

瓦礫ばかりの工場跡。しかし、間仕切りになっていたコンクリートの壁や、風呂場だったのかタイル張りの残っている箇所。そうしてごみ焼却のためだったのか大きな煙突。レンガ造りの門のようなものも残っていたし、深い水槽のようなコンクリートの大きな仕切り。その中にとってきた殿様蛙、たくさん飼っておいた。

折り重なったレンガの下からは、トカゲが這い出してきて子どもの相手をしたり・・・。その廃墟のレンガの壁に寄りかかって、今頃は、凧揚げをしたものである。そういえば、凧揚げなんぞ見なくなったし、コマ遊びなども見ない。羽根突きなどまるでみない。

鬼ごっこさえ今は見かけない。第一子どもが外に出ない。ノッパラで遊ぶ子どもをまるで見ない。

今、子どもはどこへ行っちまったんだろう。地下に潜ったのか。家の中でイジイジと、ゲーム機で遊んでいるのか。塾通いなのか。まだ学校には子どもはいるのか。そんな不思議な感覚さえ覚えるのであります。

鼻たらして焼け跡でチャンバラごっこやって、暗くなるまで遊んで、真っ黒けになって帰ると、母親に井戸水を頭からぶっ掛けられる。

そうして泣きながら夕飯かっ込む。ロクナおかずもなかった。何も食べるものがなくて、腹空かせてそのまま寝てしまうよりほかないという晩もあった。いまじゃ考えられんなぁ。

しかし、大川栄作の歌じゃないが、貧乏でもみんな元気で、将来に夢を持って生きていた。

今、子ども達は将来に夢があるのだろうか。ただカネモチになりたい、それだけだとしたらサビシイ。

余裕を持って、周囲を見回しながら、自分はこの道を行こう、と情熱持って進む、そんな気持ちに誰もがなっていたように思うが、今はどうなんだ?ムダを省く、それだけなのか。回り道もしなければわからないことのほうが多いのに。効率だけなのだろうか。息が詰まるようなことばかりして、反動が来るぜ、人間だから。機械仕掛けのロボットだったら、それもいいだろうが。

ムダもあり、遊びもあり、失敗もあり、やり直しもあり・・・そういう試行錯誤がないと見えないこと、ずいぶんあるように思う。先が全て見えるわけないからなぁ。

ま、ともかく、昭和という時代、なかなか生きの良い、覇気のある時代であった。今は当時ほど飢えてはいないが、しかし、人生というものへの信頼感というか、次代への期待、希望は、ずっと枯れていると思う。次第に、思うことのスケールも小さくなり、せせこましくなり、人が信頼できなくなり、仕事もカネ取りだけの価値観になり、なんだかニンゲンとしてツマラン時代になっちまったような、そんな気がする。貧乏でも、生きる希望というか望みのある人生のほうが健全であろうよ。まったくの貧乏で、飢え死にするという人も出そうな時代であるから、貧しくても良いとは言えないのであるが。

そうだ、今は食えないとなれば、徹底して食えなくなるらしい。「ああいいよ、うちで働けばイイよ、でも給料は安いぜ」みたいな社会じゃなくなったらしいのだ。

これは雇用がない社会のせいという面ばかりではなく、仕事に対する若い人たちの考え方にも変化があるように見えるが、それはワシには分析しかねる。

なんだか今日は難しい話になりそうなので、このへんでやめたっーと。

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米作りの若者達

以前に、このブログで書いたことだが、今回田舎へ行ってきて、着実に米作りが、若い友人の手で進んでいるということがわかって、嬉しくなった。

ふだんはサラリーマンであるこの若夫婦。友達というか知人というか、3家族が集まって、一つの田んぼを借り、米作りを始めたのである。

そうして今年、できた米を3家族で平等に分けて、籾で保管しているという。夫婦で約1年分食べられるだけ収穫できたという。

そうして、昨日の夜、彼ら若夫婦をワシの小屋へ呼んで飲み会をしたのだが、その時に、その収穫した米を炊いて、持ってきてくれたのである。

土鍋で炊くという念の入れようであるが、いやあうまいのだ、この米が。一粒一粒がしっかりと立っている。中身がしっかり詰まっている感じ。歯ごたえもあって、そうかこれが本当の米なのか、とこの歳になって感心しながら頂いたのであった。

なぜ、素人が作った米の方が、売られているプロの作った新米よりもうまいのか。ワシには良く分からないのだが、なんとなく気持ちが入っているからかな、真面目に作っているからだろうな、くらいにしか推測できない。むろん、田草取りも農薬は使わずに、みんなで手で取ったというし、化学的なクスリはともかく使わないようにしたらしい。

それがどのくらい効果があったものかワシのようなド素人には分かるよしもないのだが・・・。

その3家族のことを聞いて、もうひと家族、来年は加わるという。こうして自分たちでうまい米を手作りで作る若者が、増えていく。いいことじゃないかい。

農家が、うまい米を安く提供できない仕組みになっている今の日本の農政。もう限界に来ているのであろう。それなら自分たちで作って食べるぜ、ということであろうよ。結構結構。

ただ、手間が掛かる。費用はずっと安くできるが、手間ひまがかかるという。それでも休みを使って、みんなでワイワイいいながら田んぼに入って米を作る。いいねえ。彼らはふだんの生活でも結びつきは強まっていくだろうから、おのずと共同体のようになっていく。つまり、ムラの誕生である。

無策の農政など構っちゃおれん、そういう若者がこれからもドンドン増えていくとワシは見ておる。なにかあたらしい農業の形が生まれるような、そんな気配を感じたのでありました。久しぶりに、なんだか未来に希望が見えてくるような、そんな嬉しい気持ちになったのであります。

ほんとうに美味いぜ。手作りの米!!そうそうその夫婦、味噌も手作りだとものすごく美味い、と言っておった。インスタントのしょっぱいばかりの味噌汁、あれはニッポンジンの食するものではない、とワシも思っておったところである。

ということで、ワシは田舎から、干し大根買って来た。むろん、手づくりの沢庵漬け、作るのである。塩辛いばかりの売られている沢庵、あれは高血圧のモトだ。うまいニッポンジンの食べてきた本当の沢庵、できるかな。

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そろそろワシらの番か、インフル

これまでは子ども中心だったようだが、身近で、インフルにやられるオトナが散見されるようになった。

今日の知り合いは、60台の夫婦。孫の面倒見ていて、罹ったのかも知れぬ。

ワクチンのことだが、ある知人は、もうワシらの年代も、健康なものでも、打ってくれるよ、という。え?なんじゃいそりゃ。ワクチンが不足だから、ワシら健康ジジイはずっと後回しと言っておったじゃないか。またしても政策の混乱かいな。こうしてなんでも後回しにされちまうのだ、ワシのような正直モノは!!

30人分のワクチンの壜だというから、日にちを決めて、ドンドン打たないと、24時間以内にさばけないという。だからある病院は、日時を決めて、子どもに限らず誰でもいいからワクチン注射するというのだ。なんじゃいこれ。まったくめちゃくちゃではないか。

報道もいい加減なのかも。

もっともワシはこのワクチン、正式にワシらの番になったら輸入物だろうから、なんだか副作用があるような気がして、今のところは打たないつもり。罹っちまった方がいいと思っておる。すでに1千万人以上が罹患している。それでほとんどは弱毒性のために回復しておる。ならば、わけのわからない輸入物で、(国・厚生省のずさんさはもうわかっておるから、)重大な副作用受けるよりマシかも、と思っておる。これはただワシが勝手に思っておるだけであって、他人に奨められる話じゃないが。

さてさて、冬の畑はいかがなものか。そろそろ行って見ないことには、猫のトイレになっておるかも知れず、草もボウボウに枯れてすさまじいことになっておるかも知れず。金曜日あたりまで、畑の整理と、枯れ草燃やしと、ニンジン掘りと・・・やって来よう。ネットは使えないので、帰るまでこのブログしばらく休み。

仕分けも済んで、少し休みたいので・・・。ワシには関係ないが、なんだか疲れたよな。あのやりとり見ていると。

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勤勉だけじゃ景気はよくならん

ともかくワシらニッポンジンは勤勉であるとワシも思う。朝から晩まで良く働く。そうしてチマチマと稼いで、日常を一生懸命に送る。

老後が危ないので、少しずつ本当に少しずつ貯金していく。これがまあ、ワシらの一般的な経済生活であろう。

それでどうやらニッポンの経済は、中小企業の優秀な技術やら、節度ある出費等によってなんとか保ってきたようなものであって、決して政府の経済政策がスバラシイからここまで持ちこたえてきたとはとうてい思われないのである。

むしろ、政策によって足を引っぱられることはあったように思う。実態は、ワシら国民がシコシコと働き、日本文化をなんとか継承しつつ、チマチマと生活してきたからこそ、つましくても平和な庶民らしい生き方、まっとうしてきたのである。

それが今や、経済政策の無策といってよいような状況の中にあって、中小企業の高い技術力も、輸出に翳りが出たり、その日の食事にもことかくような人々が多数生まれたりする。なにもアホなことワシらしちゃおらん。贅沢もしちゃおらん。カアチャンから月々5000万円もお小遣い貰っちゃおらん。脱税するほど稼いじゃおらん。税金は天引き。介護保険料も天引きじゃ。なのになぜこうもマスコミ等で騒がれるような金のない人々が出てくるのか。(ワシもアブナイのだが)

戦争で家を焼かれただの、職がないだの、あるいは天災で・・・とかなら話は分かる。だが、そうじゃなくて貧しくなる、ニンゲンとしてのプライドを保てなくなるような事態が進行する・・・やはり、政策がないとしか言いようがないではないか。

緩やかなデフレで・・・などとのんきなことを言っていられる場合じゃないはず。国の経済は、もはやワシらが勤勉に生きていれば保たれるというレベルじゃないようであるなぁ。

ワシは思うのだが、やはり、政治家がカネモチなのがイカン。ワシらの気持ち、分かるわけない。権力だけが欲しくて政権についた人たちばかりであるから(と断言したくなる)本気になって国民の懐なんぞ心配しやしない。

政治家はただの公務員にしたらいい。普通の政策通や学者、国をウレウル熱血漢やらが立候補できるようにしなければいかん。つまりはカネがかからない選挙にしなければいかん。そうして当選したらただの政治公務員になるだけ、という風にしなければいかん。そうすれば権力が欲しいだけの金満お坊ちゃんやらが政治家にならなくて済む。

逆に、財産のありすぎる輩は、政治家になってはいけない、くらいのキマリがあってもいいかもしれんなぁ。

ともかく、勤勉にやっておればナントカ生きていかれるからね、と子ども達に教えてきた、その生き方がアヤシクなってきたのである。リストラされたらこの寒空に放り出される。全くの話、「友愛」のない社会になりつつあるのであります。次々に起こる犯罪、恐るべきものがある。ワシの若いころにはなかったような。

仕分けによってケチになるのは結構な話。しかし、ケチにも限度があるぜ。入るものがなけりゃ、目先の効果の見えないものは、どんどん削っていかざるを得ない。何年も後からそのツケが回ってこなけりゃいいが。

そうそう、ワシのうちでは、電気のコンセント、使わないときには全部抜くことにした。こんなことでエコに協力しております。ヤダヤダ。

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オバサンの開き直り方

後半人生にある我々、4,5人の集まりで、ナニカの話になった。内容は忘れたが、その時にあるオバサン、年齢は60台後半と思われたが、彼女が「いいんだよ、もう。どうだって。もう十分長生きしたんだから、今ここで逝っちゃっても、文句ないよ」と言い放ったもんだ。

このひと、肥満タイプで、ふだんから気が短く、せかせかとしている。いるいる、そういうタイプ・・・。

で、ワシはこのひとの言った言葉にひどく感動してしまったのである。

これだけ開き直って後半人生、生きられたら、さばさばして実に爽快ではないか、と。

キョウビ、いつまでも長生きしたくて、サプリメント手の平一杯毎日飲んだり、マラソンブームとかで心臓パクパクさせつつ、長生き長生きと呪文唱えつつ早朝やら深夜やら、ぜいぜい言って走っているのを見かける。

まあ、なんだって個人の自由だから、ワシの知ったことではないが、命という授かりモノを無理やり引き伸ばして、生涯現役という言葉に酔いしれて一直線に棺桶に向かって走りこむという図。多少は、長生きするのかもしれないが、しかし、ただそれだけに没頭して、健康オタクという老齢期の過ごし方・・・。それからみると、このオバサンの心意気や意気軒昂たるモノあり、と拍手を送りたくなるのであります。

このオバサン、食べ物はというと、「安くてまずいものは絶対に食べないよ、アタシ」と言う。(大きな声では言えないが、かの国の輸入食品は絶対に買わないとも申しておりました)

またこうも言うのである。「年とったらね、ドンドン貯金下ろして、好きなように使いなさいよ。そうすれば日本中が景気よくなるから」とも。これにはワシのような貧乏人は賛成しかねるが、しかし、まあ、いいではないか。他人の金だから。

人生と言うものはしばしば不思議なことが起こるのであるが、こういう豪快なオバサンが、それなら生活習慣病でポックリいくか、というとそれがなかなかそうはいかない。却って、サプリ山盛り、マラソンオタク型の健康一直線オバサンオジサンが、ころりと逝ったり、プッツン切れたりするのである。

ただ、冒頭の開き直り型の後半人生組は、圧倒的に女性が多いように思うのである。オジサンはどうもイジイジとナントカエキスがいいからとか、一日水泳1キロがいいとかいうと、懸命に努力してしまう。まあ努力が悪いワケではないのだが・・・・。

ワシの友人のオジサンは、糖尿と、脂肪肝と診断されて、毎日プールで何キロ、歩いて何分、買い物は徒歩で、食べ物はナニナニ・・・・とやっておるが、あの勢いではせいぜい三ヶ月?もつかどうか・・・。だからといって、止めればいいというわけではないのだが、なんだか現代の人間様は、ただやたらめったら走りまくるだけで終るという、そんな姿になっておるなあ、と、そう思っておるだけである。だからこそ、開き直りオバサンに感動してしまうのであろう。

というところで、そろそろ犬ころの散歩時間だ。犬ころばかり肥満対策に走らせてもツマラン。ワシも・・・・運動・・・しようかな、と。こうなってしまうのであります。

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急に老け込むということ

が実際にあるのだということを、ワシは近くにいつもいる知人をみて分かったのである。

その人は80歳に近いのであるが、つい夏までは、自転車で辛い坂もグングン登っていて、オネエチャンなどに追い越されると、クソッといいつつ、追い抜く元気があった。

それが秋になって、ちょっと目まいがしてね、と言い出したあたりから急に老けてきた。まず、足腰がしっかしりない。腰が抜けたような、老人独特の姿勢になった。眼が落ち窪んできた。顔色が、鼠いろっぽくなり、皮膚がぱさぱさになった。言葉が、ややろれつが回らない感じ。坂を自転車で登るのにも、押していく。それも途中やすまないと動悸が激しくなって、つらいという。そしてすぐに横になりたがる。

元気もので通っていたこの人が、こういう風になるのには、よくよく振り返ってみると1年位前から、外出の途中で、ふらふらするので帰ってきたとか、女房の介護で疲れがひどいとか言っていた、そのあたりからである。

そうしてこの秋から一気にその老け込み方が激しくなり、1日ずつ老けてゆくのが分かる。今日は、外出先で気分が悪くなり、そこで横になっていたという。

ワシの見るところでも、すっかりオジイサンになっちまった。80歳近いから当たり前と言われればそれもそうであるが、老け込む速度の速さには恐れ入る。

なんだろうか、ニンゲンの老け込むポイントみたいなところがあるのだろうか。細胞がある時点からどんどん端から崩壊してゆく、みたいな、そんな現象が起きるのかもしれない。これも生命体の必然なのであろう。

だが本人は、その現象に心がついていけないのである。ワシと話していても、明らかに怯えているような表情がうかがえるのである。坂を転げ落ちていくような、そんな不安感が満ちてくる・・・・そういう感じであろうか。

ワシは思う。人生後半に入ったら、だれしもこういう風に、老け込んでいくのだから、それを見越して、半分の人生、送らないといけない、と。だが、それが極めて難しいのだ。どんんな過ごし方をすれば、理想的な老後なのか。

そうしてなによりも、迫り来る命の残りの時間との直面。この不安感を計算に入れておかなければなるまい。どうそのことと向き合い、受け入れていくのか。ワシは、やはり宗教的ななにか、しか不安感を癒すものはないのではないか、と、思わざるをえないのである。

どんなにカネがあっても、この安心感ばかりは買えない。かえって残していくものに未練が残るだろう。どうなっても構わん、などと元気なうちは張り切っていてもいざ、心臓がぱくぱくする、食欲は落ちる、外出はふらつくので出たくない、足腰は弱って歩きにくい、眼は霞んできて白内障やらになる、内臓のどこかも、悪くなってくる・・・・。嫁さんや孫がいればいいではないかというかもしれないが、どうしてどうして、元気なものを見れば却って自分の老醜、気になり落ち込むかもしれないのだ。

そうしてひとり寂しく、旅立つ日を予感する・・・・。さて、その時どうするか、が人生後半に備えるべき最も重大な心のもちかたであろう。

冒頭に上げた知人、バザーで買ったという200円のジャンパー着てきたが、衿が中にまくれこんでしまって、それも気づかないで着ていた。近くのオバサンが衿を直してやったが、その衿を立てて、帰っていった。その後姿がすっかり猫背になっちまって、木枯しに押されるようであった。元気出して、といってもなにか上っ調子の励ましのようで、言っているほうもサビシイ限りである。

さて、ひとのことではない。ワシはどうする?なのである。いまからしっかり心の準備しておかないとなあ。俳句にもしにくいなあ・・・。

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さびしいオジサンのバスツアー

というのは、昨日、ナマイキに紅葉狩りにバスツアーで行ってみた。日帰りじゃないと、ナニカと都合が悪いので、夜には帰ったのであるが。

そこで、ワシの前の座席に二人のオジサンが坐った。通路を隔てた隣にも二人、オジサンが坐った。ワシははじめ、友人同士で紅葉狩りでも愉しもうとツアーに参加した、と思っておった。

だが、行きも帰りも、一言も話をしない。また、歩くのも別々である。つまり、この4人のオジサンたちはそれぞれ、単独で参加したのである。

だから、全く話もしないし、黙って食事をし、黙って紅葉の写真をそれぞれが撮り、そうしてまた黙って、バスに乗って、ひたすら修行僧のように、もくもくと日程をこなしたのであった。

ワシはそれを見ていて、オジサンがひとりになったらこれはもう、さびしい限りであるなあ、としみじみと感慨に耽ったのであった。

それに引き換え、オバサンで単独参加はひとりもいなかった。それどころではない、3人から4人ぐらいのグループで、バスの後ろの方に陣取って、大声で話しっ放し。ひとときも黙っている時がない。凄まじいおしゃべりの機銃掃射である。

そうして、バスから降りると、まあ食うわ食うわ、みやげ物店の試食、次から次へとパクパク。ワシはその口元見ていて、喋るか食うか、とにかく休みなしであるなあ、と驚嘆してしまった。

わははわはは、と大声で笑いつつ、行程を踏破したのであった。

それに引き換え、このオジサン達の暗さはどうだ・・・・。何で、ひとりで紅葉狩りなんぞに来るのか。哀しくなる。

だが、これがオジサン達の実態なのである。会社では一丁前に仕事はこなしているはずである。

せっかくだから隣のオジサンと話でもすればいいものを、それもしない。ただ黙ってバスに乗り、座席に座り、バスから降りて、家路につくのである。

土産はなにか買ったのであろうか。そこまでは観察していなかったのであるが。

ワシら人生後半にはいったオジサン達は、あまりにも惨めすぎるではないか。

でもなあ、家に帰っても怖い奥さんが待っていて、小さい時には可愛らしかった娘からは汚いものでも見るような眼で見られる生活ではなあ、紅葉狩りのバスツアーにでも参加して、休日を過ごそうと思ってしまうかもなあ。

なんとかならんかなあ、ニッポンのオジサン達。テレビやらマスコミで取り上げられるいききとしたオジサン達は本当に一握りのような気がするなあ。

頑張れ、といわれても、どう頑張ればいいのかわからんのじゃ。居場所がないんじゃ。きっと。

こういうとき、せめて、隣のオジサンと、会話ができたらずっと面白いのになあ。いやいや、かえって辛いのかもよ。静かにしていたいのかもよ。

さて、かく言うところのワシは、このツアーはどうだったかというと・・・・紅葉がきれいだったなあ・・・・(と、誤魔化す。やっぱサビシイ仲間か)

そこでこんな句ができちまった。オジサン達は昼食以外は何も口に入れていなかったようであったが。

 冬富士や車内を回る蛸せんべい

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自分は加齢による短気なのか

よく考えても分からないことがある。

今日も、そんなことがあった。

役所へある書類を取りに行った。身分を証明するものをもっていかないと、渡せない、という。それはいい。そこまでは。

「ですが、2,3質問させていただけば、身分を証明するものをもっていなくても結構ですが」という。ここまでも別に問題なない。自分が免許証なり、を持って行かなかったのがうかつだったのであるから、窓口の親切と受けて良い。

それからが問題である。父母の名前をはじめとして、以前の戸籍があった場所、以前の本籍のあったところ、戸籍にあるものの名前はどういう字を書くか、本籍にあるものの生年月日等々、とても覚えていないことを微にいり細にわたり根ほり葉掘り聞かれた。

中にははっきりとは憶えていないことがある。すると、それを何度も聞き返された。誰それの生年月日は、などと聞かれても、家族であったものの全ての月日まで全部憶えちゃいない。

すると疑い深そうにワシの顔を見るのである。だんだん、腹が立ってきた。「おまえは警察官か。なんの権利でそんなにワシのプライバシー、突っ込んで聞くんだ!!」と怒鳴りたくなって来る。

それでも今日はその書類、持って帰らないとその後の日程がこなせない。免許証を取りに帰る時間の余裕がない。

しょうがない、我慢していると、このオヤジなら犯罪者でもないだろう、と判断したらしく、「いいです」言いつつ、その書類渡してくれた。

これって、権利の乱用じゃないのかい。役所の窓口の。その男は、年輩の男でどうやらその小さな出張所の責任者らしいのだが。

これは果たしてワシが、加齢による短気なのか、あるいは怒るのがまともなのか。ワカラン。今は、ヘンな犯罪がはやっているから、役所の窓口も慎重になるのは分かるのだが。

こういうことがやはり加齢にしたがって多くなる。困るのはそれが自分のいわゆるいうところのボケなのか、違うのかが分からなくなってくること。

判断に自信がもてなくなるのは、実に不安なものである。

だがこうして少しずつ、老齢に入ってゆくのであろう。そうして、オジイチャンだからね、しょうがないよね、で済まされるようになるのであろう。判断力を強くすると言う方法はあるのか。

ウーム、どうしたらよいのか、その判断がなあ、できんからなあ・・・。

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だからジジイは嫌われる

むろんジジイとは自分のことも含んでいる。

今日、林檎の木をもっている知人が、何人か集まっていたところで、今年の収穫の林檎を一人当たり二個ずつ配ってくれた。なかなか良い林檎である。

その集まりも解散した後で、二人、後れて来た人がいた。

ひとりは、30台のオバサンと言うより、オネエサンといっておこう。彼女に、帰り際になっていたある人が、「今、林檎を貰ったのよ、一つどう?」といって差し出すと、「あら、嬉しい、ありがとう」にっこり笑いつつ、大事そうにそれを抱えてバッグにしまった。

次に、ジジイがきた。コイツはワシの担当であろう。ワシが、同じように「どう、この林檎。何々さんから今貰ったばかりだけれど、もっていかない?」と言うと、こう来た。

「いらない、重いから」だと。なぬ?林檎一個が重いか?ワシは即座に「ア、そう」言いつつ自分のバッグにしまった。たった二つしかない林檎、そのうちの一つをおすそ分けしようとしているのに、せっかくだから、頂きます、ぐらい言えないのか。このジジイは。ひとの好意を無にしやがって、とムカッと来た。

ムカッとくるワシも料簡が狭いのだが、しかし、なんだい、その対応は。コイツに引き換え、あのオネエサンの態度の愛らしいこと!!ニンゲンこうでなくちゃイカン。

憎たらしいヒネクレ根性ではないか。ワシも気の狭い男であるから、金輪際コイツにはなんもヤラン、と心に強く誓ったのであった。

だからジジイは嫌われるのである。お互い気をつけようね。可愛らしく行こうぜ・・・・。ゴホン!!

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無料で助けるわけはねぇ・そうでしょ弁護士様

やっぱりなあ、と思った。

このところやたらに多重債務返済お手伝い云々、のチラシが我が家にも入っておった。

なんじゃいこれ、と思っておった。ラジオでも盛んにご相談ください、ナニナニ弁護士会所属ですからと宣伝しておった。安心させておいて・・・・・。

ニッポンも恐ろしい国になったもんじゃなあ。騙すのもホンモノの正義の味方がなあ。騙すとはなあ。

それも一人や二人じゃないぜ。借金して困っておる弱い立場にあるものを食い物にするという、弁護士様多数である。まさか横で結託しておるんじゃなかろうなあ。

ワシらこんなふうに泥沼にはまったら、誰に相談したらいいんじゃ。全くもって途方にくれるばかりである。

借金などするのがよくなかったのであろうが、しかし、事業主など、資金繰りに困ることだってあろう。

つまりは堅実に、生活するのが一番ということだろうが・・・。真面目に働いても借金しなければ食っていかれんというニッポン経済。なにも景気なんぞ良くなっとらん。そうしてそれにつけこんで、さらに追い討ちかけるように、身ぐるみ剥がされる。

しかしながら人間、一皮向けば、ドーブツ的であって、いかなる正義の味方も、鬼が仮面かぶっておると思って間違いない、とワシはつねづね思っておるから、そう驚きもしないのであるが。

要するに、ただより高いものはない、ということと、完全なるボランテイアなどはほんの一握りの宗教的天才しかできないことである、と思って間違いない。

自分を考えずにひたすら他人のために犠牲になる、ということはトンデモナイたいへんな営為であって、全てはあなたのために・・・ということばほどインチキ臭いものはない。だれが多重債務者のために無料で奉仕するものか。ありえない。

要するにそうなったら一生懸命に働いて、少しずつでも返すほかないのである。無料で助けます、などという仮面かぶった正義の味方など信用してはならぬ。弁護士もカネが欲しい。うまく騙せる獲物を探しているだけでありました。あなたのために無料で助けますというインチキ正義を溺れるものが掴んでしまった。そうしてなんと債務者は困窮しているのにさらにカネを何十万も払う羽目に陥った。相手は弁護士だもの、口はうまい。負けるよ。

ニンゲン、つまりは義よりもカネに走る、という本性があるということ。それを制御しながらちまちまと生きるのであります。それでいいのであります。

外は今日も冷たい雨。やだねえ。

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