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2008年11月

ワシの情報源、タカが知れているが

やはり、仕事からはリタイアした身であれば、テレビ、ラジオ、本、井戸端会議くらい。しかし、頭はこれでもくるくる回しているつもり。

先日テレビで、年輩の(83歳だったか)尼僧をインタビューしていた。その中で、おもろいなあ、と思ったこと。

ある人から人生相談を受けた。「シニタイ」という。それでそのお坊さん(尼僧もお坊さんでいいのか?)

「あんじょう、死にや」と応えた。すると、その相談者「あんた、宗教家のクセに、命を助けるのが仕事でしょう」と開きなおった。

「自分の命や、死にたければ死んだらよろしい」と応える。そうして「どうせいつかは誰でも必ず死ねるんや、安心してよろし。急いで死なんでも、それまで一生懸命生きたらいいじゃないか」と。

ワシもなるほど、そうだなあと納得。それなのに、自分だけ不幸の塊みたいに思って、やけくそになり、自分だけ自分のしまつすればいいのに、他人を巻き込んで一緒に苦しませようとする。そういうヤツが多過ぎるなあ。何で、人を巻き込むのか。お前は、お前の命。好きにしたらイイジャナイか。人生、どう考え、どう生きていこうと、つまり、向上しようと、転落しようと、アンタのせい。他人に迷惑かけなさんな。

だが、転落といっても本当はどこにも転落していないのだが。それがわからない。金持ちにならないと不合格、社会的地位が上らないと不合格、病気が治らないと不合格・・・・。ようするに欲しい惜しいが手に入らないと、ふてくされ、他人のせいにする。

これを地獄と言う。いつまでたっても、どこまでいっても、安心できない。ただただ怨みつらみの連続。自分の人生は自分でナントカせにゃイカン、ということがどうしてもわからないのである。

これってどういうこと?貧乏でも意気軒昂と生きられるし、先ほどの尼僧、片手が不自由。それでかえって、生きていることがありがたいという。こういう生き方だってある。あと20年も生きられると言っておった。

ワシら、めげると、ヒネクレル。自分以外のものが全てエラソウに見える。だが、心の中を見ればエラソウな人も、まるでグチャグチャだったりする。

この辺が、冷静に見られるとけっこうラクになるのだが。なかなかどうして、自分だけは・・・と幸せかき集めたい。人間の我執だなあ。

テレビで見たぐらいでは、なんもワカランと思うが、しかし、ふっと生き方で煮詰まった時に抜け道があるということがわかるだけでもいい。

どうやら一生、修行だなあ。

その尼僧こうも言っておった。「オトコも好きやし、ステーキが大好きや」と。うーっむ。達人であるなあ。

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大河を渡る夢

を、よくみるのである。海岸を歩く夢も見る。

この夢の話をワシら同年代の者と話をした。

「夕べ、渡し舟に乗ろうとしたのに、自分だけ乗れなくて、困った夢だったよ」

オバハン「それは良かったじゃないの。乗っていたら今頃、交通事故か何かであの世に行っていたわよ」

このハナシ。オバハンの言うとおりなのか、あるいは別の意味があるのか。かなり面白いことだ。

つまり、三途の川を渡ってあの世に行く、という話がよくされるし、また不思議なことに臨死体験者が、河の向こうから亡き親類縁者たちが、おいでおいでをする・・・・ということも読んだことがある。そのまま行ったらお陀仏だったが、お前はまだ早いから帰れという者がいて、この世に帰還した、などという。

さて、ワシは、もっと別の意味があると思っておる。河はやはり、人生上のライフワークであろう、と。それを渡ってライフワークの完成を目指す。それがやはり人間だろうと思っておる。おそらくは完成はないのだが、しかし、あくなき向上心によって、向こう岸に渡ろうとする。そういう存在と思っておる。

したがって、まだ河が渡れない状態なのである。今は。

人生上の、さまざまな課題。たとえば、やりかけている仕事、打ち込んでいる稽古事、家族の中のモンダイ等々。それらが解決を待っている。その課題そのものが渡りきれない大河。

夢は極めて象徴的にあるいは、イメージをもって、意識上に心の状況を映し出す。だから見たものをそのまま解釈することは、間違うことがある、と思っておる。これまでの体験からだが。

たいていは自分の心の中の状況が動画となって、出て来るのである。しかし、予知的な夢もむろんあると思われるが。というのも、ワシが体験した夢で、明らかに予知としか思われない夢があったからだが、それは1,2回しかない。ほとんどが心の中である。

だが、なぜそんなことを夢はやらかすのか。深層にあるものを、表に出すという意味が何かあるはずで、それは深層のこころと意識とが両者在って、初めて心というシロモノになるということなのだろう。

この夢を見た後で、口惜しいので、もう一度解決ヘンをみてやろうと思い、自分だけの渡し舟が出る夢を見てやろうと思って、寝た。すると、渡し場の受付のオヤジが出てきて、「いいですよ、臨時便をだしましょう」と言うのだ。

ワシはシメタ、これで人生上の課題、解決の方向に向かうぞ、と嬉しくなったが、オヤジ曰く。

「あんた、自転車ごと渡ろうというのかい。それはちょっとなあ」と言うではないか。おまけに臨時便が出ると言うので、人がわんさと集まってきたのである。

それでオヤジ曰く「少し大きめの渡し舟を出しましょう。船頭はすぐそこにいますから、呼んで来ます」

さて、そこまで見て、やはり目が覚めた。どうしても対岸には渡れないのだ。今はまだ機が熟していないのであろう。こういうときには無理してもダメだ。待つほかはない。

それで、もう続きを見るのはやめにした。そうしたら朝までぐっすり寝てしまった。むろん、今日は外出もしたが、事故にはあっていない。まあ、用心に越したことはないが。

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犬とは言えど

いつも行く散歩コースに、ある犬がやはり来ていて、よく出会う。

その犬は、マスチフ犬と言うのだろうか、白っぽい短毛。大型犬で、顔がブルドッグ風。ワシは犬の種類はよく知らんが。

モンダイはその犬ではなく、つれているオジイサンである。もう腰が曲がっていて、よろよろしているのである。今日など、雨が降っていて、合羽着ているので、周囲の様子もわからないらしい。

そこへ、黒くて精悍な犬を連れた男がやってきた。すると、そのオジイサンの大型犬は、いきなりその黒い犬に向かって突進しようとした。

結果は・・・・オジイサンがぐんぐん引っぱられていく。オジイサンは必死になってリードを両手で握り、運動会の綱引きで負けそうになって引きずられていく、その姿になっている。

黒い犬を連れた男は、そのオジイサンに向かってなにか強いコトバを投げた。ワシはその男の言葉が聞き取れなかったが、「こっちへ来るな」みたいなコトバであったろう。なにしろ凄い犬なので、突進してくれば、たいていの人間は、ビビル。

黒犬も、なかなか強気で、唸っている。あわや、犬同士の大激突。と思ったが、辛うじてオジイサンの必至ののけぞった体重で、犬はストップ。

ワシはその姿を見て、このマスチフ犬(としておく)の方がどうやら長生きするだろうと思ってしまったのである。オジイサンは、これから先、どのくらい散歩に連れてこられるのか、気になった。というのも、半年ほど以前は、オバアサンも一緒だったのである。オバアサンは歩けなくなったのか、ついて来ない。

ペットブームは良いこととワシは思うが、しかし、このオジイサンのことを考えると、複雑である。どこかに引き取ってもらう、他はなくなるのか。しかし、オジイサンのただ一人の友達かも知れず、手放したらどう?などと単純に思われないのだ。

その姿を見ていて、やはり我が身に置き換えてしまう。人生後半の、癒しと言うか、一つの生きがいとしては、ペットはこれからも重要な伴侶であろう。例えワシのうちの雑種・駄犬でも、けっこう可愛いのである。

疲れて帰った時など、ヘラヘラしながら尻尾振って玄関まで迎えに来られるというものは、いいものである。だがなあ。人生後半、なかなか難しいなあ。たかがペットだが。

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もう面倒になる、旅行の幹事

趣味の会でも、高齢化が進み、ワシのようなものが、若輩者の時代になってしまった。ところで、毎年行っている旅行会。どこの趣味の会でもやるだろうが、そういうものも、しだいに辛くなってくる。

お膳立てしていただいて、くっついていくだけでも、夜は、酒飲みの大宴会に、疲れてしまうし、昼間の散策も、もうかったるい・・・・という感じになってしまう。

それなのに、今度はワシが幹事をやれといわれる羽目に・・・・。

旅行先を選ぶのも、なかなか難しい。自分だけの旅なら好きなようにアレンジしてしまうが、露天風呂の大きいのがないとイヤだの、りょうりもそこそこで、宴会場もしっかりとってくれだの、ホテルじゃなく歴史を感じさせる老舗がいいだの、あげくの果ては、安く抑えろ、と来る。

そんな旅館、どこかにあるのかいな。

最後に、ボスの一言。「申込者が少なかったら、おまえのせいだからな」だって。

もうヤダ。旅行の幹事をこの歳でやるのなんて。どうしてこうも高齢者が増えちまったんだろう。ワシもその仲間に入りつつあるのだが。

会員の中には、糖尿病あり、心臓ペーメーカー装着しているものあり、なにやらの難病の人あり、最近骨折して杖ついてる人あり・・・・なのだ。

どこへ行けばいいのだろう。温泉場に救急患者受け入れてくれる病院、探しておかないといけないのかも。

12月の忘年会までに案を作って、会員に示さないといけないのだ。クルシイー。

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歳をとっても難しいのは人間関係

どんな組織でも、たとえば町内会でもあるいは、芸事、趣味の会等々、のなかで、それを仕切るヤツと、仕切られるヤツがいる。

仕切られる方が、イエスマンであって、はいはいいいですよ、と言っているうちは、別になんも問題は起こらない。

だが、いつもいつもそう言いなりにはなれないことが必ず起きてくるのだ。

すると、仕切っている方は、いつもは唯々諾々としていたものが、反逆する態度をちらっと見せるので、アタマニくる。

仕切るのは自分だ、という思い込みが強くなってきるので、始めの仕切り方よりきつくなっているせいもある。

こうして権力的な志向が生じ、ただの仕切りやから、ボスへと成り上がっていく。この時に、このチンピラボスが、少し人間として巾が広いと、組織はおだやかに収まるのだが、器量の小さいヤツが、ボス的になろうとすると、反抗分子を闇雲に潰そうとする。ところが、人間と言うものは、不思議なもので、これまで仕切られていた方も、頭から潰される、とわかると猛然と反撃に出る。つまり、自分を殺して、仕切られているものなのである。それが自分には保身術であったり、組織のためだったり、ということからそうしているだけなのである。

ところがチンピラボスは、それがわからないから、よけい居丈高になる。ここで、仕切られている方がそのまま潰されると、ただ一人のお人よしが組織を去って、またグループのダイナミックスは元に戻る。

だが、去らずにそのまま居残り、中で燻り続ける、となると、組織の中に分裂が起こる。つまり造反グループの誕生である。

ワシらの年代は、先がないので、できれば組織からは出たくない。だが、自分よりずっと若い仕切りやの性格が権力好きで、ワシらを年寄りとして小バカにする態度を取ると、ムカッと来る。ここで、ワシらは落胆して辞めるべきか、意地張って居続けて愚図るか、という瀬戸際に立たされるのである。

こういう場面、できれば遭遇したくない。だが、組織は人間関係であるから、どこかで衝突するのである。

ジジイはのん気でいいなあ、年金でふらふらしていればいいし・・・という見掛けは、その底にやはりなかなかドロドロとしたものを持ちつつ、ふらふらしているのである。

こういう時に、ふっと助けが欲しくなる。こうしてお寺巡りが始まると言うわけである。つまりは自我を持て余すのである。ナンマンダブ・・・・。合掌。

(それにしてもあの仕切り屋のオバン、なんとかやっつけてやりたいものだ!!)

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予防接種でもジジイは肩身が狭い

近くの医院へインフルエンザワクチンを接種してもらおうと出かけた。

待合室にて。母親とその子ども3,4歳と5,6歳の三人が待っておった。やはり予防接種と思われる。

ワシの前に待っていたオヤジ。やはり接種であった。注射が済んで、会計窓口へ。「1300円です」

オヤジ「一回でいいんですか」

受付嬢「はい、オタクは一回でいいんですよ」

それを聞いていた子ども。壁に貼られてあった注射料金を見て(賢い子で漢字が読めるのだ)「お母さん、ボクたちの注射代、高いねぇ、一回目は3000円だって。そうして2回目は2500円。どうして二回もやって、しかも高いの」(しかも、などと言う言葉を使う。なかなかナマイキなり)

するとお母さん答えて曰く。「それはねぇ、あなた達子どもは、元気でいて欲しいからよ、注射代高くてもいいし、二回注射すれば、よく効くでしょ」

ワシはそれを聞いて、・・・・ということはワシら1300円組は、ドーデモいいってことなのか。そうか、ソーイウコトだったのか。と今頃気がついた。

このお母さんは、ワシらの注射料金安いのも(一回でええ、薬の無駄じゃ)ソーイウ風に、とっている、と断定する。少なくともこの子どもは、こういうところでもしっかり、教育されてしまったと、やはりワシは断定する。何しろ賢いノダ、この子は。母親の意図はすぐに読み取ったであろう。

親子三人、そばにいたワシの落胆も全く意に関せず、わいわい言いつつ帰っていった。

ワシも1300円、やっと払って、玄関に向かうと、そこにパンフレットが・・・。

「近頃、尿が近くなっていませんか。恥ずかしがらずに医師に相談しましょう」とあった。ドーシヨー・・・。相談しようかな・・・。

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田舎は不動だ

田舎で大根と、サツマイモ掘っている間に、アメリカ大統領選挙でオバマ氏が、次期大統領に決まったとか。そして、小室ナントカ言う音楽関係者が、(ワシでも知っている、この名前)詐欺で逮捕とかいうニュースが入った。

テレビもねえ、新聞もねえ、パソコンもねえ・・・の生活で唯一のマスコミは、ラジオのみ。それで、畑仕事しながら携帯ラジオで知ったというわけ。

なんだか遠い世界の話だなあ、と思っちまった。

そうそう、戦時中に田舎暮らしをしていたさる著名な哲学者が、戦争しているということを知らなかったという話があった。これは十分ありうることであること、今回は確かめられたのであった。

大根堀している時に、近隣の村のジサマがなくなったとか、柿が盗られたとかいうニュースは大ニュースだが、オバマさんって誰?てなもんである。また東京の音楽のオジサンが詐欺で捕まろうと、それがドーシタ、なのである。

田舎は不動である。実に、見事なぐらいにだれも世界のニュースなどでは騒がなかった。

隣の猫は悠々と、ワシの目の前横切って行ったし、いつも犬を散歩させる村人その一のオジサンは、定刻4時30分になると、小太りのコーギー犬連れて、咥えタバコでやってくるし、草刈の後の焚き火は、ゆったりと空に上っておる。世は何事もなし、なのである。

農村の底力と言うものは、これはかなりたいへんものであろう。ワシはなんだか日本人のど根性の、ルーツ、見たように思った。

昨夜、近くの若者夫婦が一杯やりに我が小屋にやってきた。そこで話した事は、東京は人が多くてヤダナア、と、今度田んぼ借りられそうだから、一緒にやろうよ、とか、この犬は尻尾が可愛いね、歯磨きもするのかい、とかの話。中でも一番真剣に奥さんが話してくれたことは、「ほら、あそこのオジイサン、急に亡くなったんですってよ。まだ60歳だったんだって」だった。

それで、取ったばかりの大根とニンジンとサツマイモも入れたオデン食って、地酒のワイン1本空けて、ゴキゲンで帰っていった。その間、大統領が、と言う言葉とか、音楽事務所のなどという大都会言葉?は全く出る余地がなく、つまらない駄洒落言い合って、アハハ、で終ったのであった。

ワシはこういう田舎が日本にドーンと根を張っているということに、モノスゴク安心感を持つのである。

人間の毎日の生活とは、こうしたものであって、こつこつと種をまき、それを育て、ある人はそれを売り、日々の暮らしを営々と続けていく・・・・。そして祭りにはみんなで盆踊りを踊る。生きるということはこういうことなんだなあ、とガラにもなく、深く思索したのであった。

秋はこういうアホジジイも、思いが深くなるのである。今日も真っ青で抜けるようなすばらしい空であったなあ。イやもう冬じゃ。今日は立冬。今日から冬に入(い)る。そこで歳時記からこんな句を見つけた。

      健康な心を保ち冬に入る   奥田智久

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